初代江川マストン(曲芸)
あたしの父親(熊吉)というのが、小柄でしてね、あたしより身丈が低いですからね、五尺そこそこ、まあ、玉乗りだけじゃなく、いろんな芸をやっていました。撞木っていう、ブランコですね、その撞木が得意でした。親父のは頭立ちっていって、ブランコの横木に頭で立っちゃうんです。大抵は横木に皿をネジで止めて、そこに頭を当てるんですけど、親父は何も無しで逆立ち。それから親父は、真田紐の輪っかを口にくわえて、相手役が二人もそのサナダにぶら下がって、撞木を揺らしながら芸をするんですよ、歯で食い止めてるんだ。
1910年の『浅草繁盛記』では既に「玉乗曲芸 江川梅吉 迫熊吉」という記載がある。主力メンバーでは一番の最年長者だった模様である。
森 マストンさんが、寄席に出て居られたのは何時頃でしたかね マストン 大正七年頃睦会の方に入って昭和五年頃まで、最初は玉乗りは、ネタが運ぶのが大変でやりませんでしたが、自動車も安くなったので古いものを引っ張り出したと云ふ訳でした 鈴木(義豊) 江川で九龍紋と云ったら有名なものですよ マストン 元来私は広島のもので、江川が九州の方へ巡業に行って、今はありませんが広島の集産場でやって居る時に親に死なれたりして入った訳でして、七つの頃からやって居るんです 古川 マストンと云ふ芸名はどう云ふ処から来たものですか マストン 席に出て居る時分に五代目の柳亭左楽さんがつけてくれましたもので、其の頃真ッすぐに逆立ちするのを得意でやって居りましたが、船のマストと云ふ見立てでさうなったのぢやないかとこれは私がさう思ふだけなんですが
▽お次が七三歳といふ江川マストンの玉乗り、大きな赤玉をごろ/\転してひょいと乗っかることから輪抜け、はね桟ばしなどの曲技も昔のまゝで、合の手に口上をいふのにひどい息切れがしてゐるのが痛ましく、ジンタのメロディに乗って江川のびろおどのカーテンからピエロの姿で飛んだり跳ねたりし乍ら登場したその昔のマストンを思い出して、一所懸命に拍手をし乍ら泪をこぼした。