林家染団治
(喜利彦推測 大正4年に東西会に参加して上京した事を考えると、大正初期には林家染丸の門下にいたことが考えられるが、入門時期は不明。また、先述通り、染丸の一番弟子と自称している記事が私の手元にあるが、これも信憑性に欠ける。上方落語の系図や関係者を詳しく記した「落語系図」を覗くと、「二代目林家染丸門弟 林家染団治」という記事が確かに確認できるのだが、それ以外の名簿や番付には載っていないので、いつ頃入門したのか全く分からない状況にある)
漫才への転身
(被災の動乱を喋った後、)林家染団治てえ、上方から来ている東西会の仲間が、まっさきに来た。これが太っているから、よく食うんですよ。鍋一ぱいたいたメシなんぞ、一人でペロリとやっちまう。こっちは夫婦で、カラの鍋ェのぞいちゃァ、ためいきをついている。
(古今亭志ん生 「びんぼう自慢」 131頁 ちくま文庫)
その頃を偲ばせる回顧録の一つして、 『朝日新聞 夕刊』(1937年5月15日号) で連載されていた「いつになつたらわれらの春に 藝界下積物語」に、染團治が取りあげられた際、
舞台でゴリラの物真似で人氣のある林家染團治は、大阪仁輪加を振出しに落語に転じ、それから更に漫才に転向したがさっぱり人氣あがらず、旅から旅へ流転のわびしい御難続き。
「▲御園劇場 大和家三姉妹一座へ荒川小芳、林家染団次新加入」
北八『アハゝ此のテーブル掛を飾つた所が萬歳の人氣を示した所さ、普通だと正面にテーブルを一個置いて太夫のを一枚しか掛てないのだが、上下に一枚づゝ出演する両人に贈られてゐるのは素晴らしい、ウム上手のが林家染團次さんへとあり、下手のが加藤瀧子嬢とあるね……イヨウ出て来た/\、即ち上手から出て来たのが染團次で、下手から現はれたのが瀧子嬢か、ウゝムン素敵に仇ッぽい代物だぞ。』
とある。 1928年6月~7月前半、清子(亭号不明)。『都新聞』(1928年6月30日号)に掲載された「▲市村座 1日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは」の中に、「染團治・清子」とある。
▲新歌舞伎座 七日より十三日まで變り種の諸藝人を網羅してナンセンス萬歳大會を毎夕五時に開演、出演者は荒川清丸、玉奴、玉子家吉丸、久奴、松本三吉、政次、轟一蝶、二見家秀子、吉田明月、荒川芳坊、喜楽家静子、林家染團治、加藤瀧夫、瀧奴、東駒千代、喜代駒、大道寺春之助、砂川若丸、東明芳夫、堀込小源太、小幡小圓、清水小徳、八木日出男、大和家初江、大和家雪子、中村直之助、千代の家蝶丸、登美子、玉子家末廣、福丸、浪川奴風、松平操、梅若小主水、砂川雅春、大和家かほる、壽家岩てこ、富士蓉子、朝日日出丸、日出夫、一丸、金花丸、松尾六郎、和歌子、弟蝶、久次、力久、竹乃、亀八、三代孝、デブ子、花輔、正三郎、源一、菊廼家若雀、独唱白井順、混成舞踊石田擁、女坊主澤モリノ外支那曲藝一行等
「▲萬歳研究会廿一日夜より五反田第一大崎館に、出演者は源一正三郎、染次染團治、もと子圓十郎、三代孝亀八、談之助源六、百々龍小源太、繁子一休、松江大正坊主」
小川雅子の事
三番目(註・出演順)の小川雅子さんは東京京橋の出身、漫才では染團治と約八年のコンビで、唄がお得意
染団治によると、小川雅子の前歴は女優だったといい、「 人を笑はす商賣ばかりの座談會 」(実業の日本 昭和14年1月号)なる座談の中で、
記 者 染團治さんも一寸替れないわけですね。 染團治 だからあんなきれいな女を持ったら、もう持てないから大事にしてゐます。何と言つても、足掛け十年ですからね。 馬 風 正子といふのは亭主がなかったかい。 染團治 あれは、その時分祇園小唄を唄つてゐたんだ。私は近所だから観に行つたが、あまりいい聲だから、何とかならんだらうかと掛合に行つて映畫へ連れて出たのが初めです。それから大阪、京都と巡業してゐるうちに、向ふぢゃ、こんなきれいな青年と――と思ひ、宿屋でも知らないから蒲団を一つに敷いて呉れるので、仕方がないから――やはり仕様がないよ。(笑聲) 馬 風 何でも脅迫したといふことを聞いたよ。俺の言ふことを聞けば左団扇だとか、給金を六圓上げるとかッで。さういふの探して呉れんかい。 染團治 君はまた早いからいかんよ。 (註・馬風は「鬼」で知られた四代目鈴々舎馬風。)
小川雅子といふ少女漫才は十四歳の小娘時代 昼は工場にいつて働き、夜は品川の帝國館に出演し『新派大悲劇』や『蘭劇』の弁士の子役なんかをやつて町の兄さんたちに騒がされて居たが、その後活弁を失業して今度は小唄映畫なんかの歌を唄つて居るうちに漫才になつたといふ経緯がある。
染団治、売り出す。
電車通りからはいって、六区の突きあたりの左角に、名前は忘れたが、なんとかという小屋があった。江川大盛館――違うようだ。おもいだせない。低級な寄席みたいなもので、なんでもやる。染団治という眼のいやに引込んだゴリラの真似が上手な男。花菱という芸人もいた。 三八二 みやじ という安来節の旨い年増もいた。
そんな染団治を大変愛し、応援していた一人に「演歌の神様」こと、添田唖蝉坊がいた。彼は自著 『浅草底流記』の 『大盛館のゴリラ』の中に、
特筆す、染団治、静子の万歳。通称ガンモドキ染団治君の、ゴリラのどぜうすくひである。彼が、真面目(といふのはおかしいが)で万歳をやってゐる顔は、漫画家の宮尾しげをにそッくりだが、ゴリラになってからは大辻司郎にそッくりだ。そのゴリラがどぜうすくひをやるのだ。思っても愉快ではないか。断然大盛館で光ってゐるゴリラである。
東京吉本入社とテイマン時代
その時分、浅草の玉のりで有名な江川大盛館ってえのがありました。そこに色物集めた大会があったんですよ、そこへちょいと遊びに行ったとき、大阪の吉本興業にいたことのある青山てえひとに、ひとつ月給百円だすから手伝ってくれ、なんて頼まれて、そいじゃってんで首を突っ込んだのが、噺家とは道の違う、そっぽの方に歩き出すきっかけでした。 昭和五年まで足かけ三年、そこでいろんなことをやりました。 林家染団次てえゴリラの真似する売れた芸人でしたが、そのひとと一緒になってもう、いろいろなことをしましたな。(中略)その頃、一軒おいて隣に吉本興業の花月てえのがあったんですよ、二軒でね、競争でしたけどもね、結局あたしたちの方が客のいりがよかったんでね、そいで吉本の社長、いま、吉本興業の会長になっている林正之助っていう社長がね、大盛館の連中全部買おうということになって、ほんの遊びで入った世界がとんでもない方向にとこれからすすんでいっちゃうんで。
吉本所属とだけあってか、関西の面々とも交流が深かったと見えて、菊池寛の名エッセイ「話の塵」(「菊池寛全集 24巻 話の屑(昭和十年)」)の中に、
エンタツ一座
久しぶりで、新宿第一劇場でエンタツの漫才を聴いた。エンタツの長所は、その軽妙な身ぶりとその話術にある。だが、それ丈に話の内容が空疎になりがちである。漫才をもつと発展させるためには、やはり作者が必要であることを感じた。映画における考案者のやうな人がゐなければならぬと思つた。この一座の雪江五郎、染団治などは、だん/\上手になるやうだ。それから、一しよに出てゐたアクロバットの寺島玉章の芸は、至芸である。あれを見てゐると、昔の剣術の名人などの到達した妙境と云ふものも、理解される気がする。牛若丸の早業も、天分と修業とで、やれないことはないやうだ。
林家染団治といえば、大阪の落語家出身で、当時、東京では弟子もたくさん抱えた大御所で、ゴリラのまねをお家芸にしていた師匠です。
染団治一門は、昭和に入って隆々たる勢いを示し、「林家会」の名で東京漫才の中心勢力となった。最盛期は五十組を数えたほどだ。このあたり喜代駒の場合とは大きく違った。
当時のメンバーは八十余組(百六十余人)。染団治が代表格にえらばれたが、実権は大久保氏がにぎった。
夜八時 大阪新世界 芦辺劇場より 掛合漫才「寄席中 繼 」
初夏行進曲 小川雅子、林家染團治 二人が街に出かける、仲のよいつがひどり、女夫ぶし賑やかにやつてきたが、杉山流の水泳で腹より深いところは不都合とあつて今度は山へ〽山は夏がれ麓は小ばれ、夏は裾野の放し駒、ひとりわびしうてオーイと呼べば、憎くや山彦聲ばかり
どうやら、この頃が一番の人気と権力の絶頂であったようで、 落語家の立川談志は色川武大「寄席放浪記」 における 対談の中で、当時の染団治を、
立川 染団治があの頃の王様ですよ。林家染団治。色川 染団治の系統はずいぶんいた。それから、東喜代駒か、あの系統もいた。
――私の子供の頃、ゴリラの真似で売っていた林家染団治は東京漫才界のボスだったらしく、林家の家号と染の字をつけた芸人がやたら多かった。
林家染団治・小川雅子 ゴリラのどじょう掬いは天下一品 林会のリーダーで東京方のリーダー(原文ママ)
それまで林家染団治を会長にした「関東漫才協会」というのがあるにはあったが、ほとんど有名無実。このマンケン(註・漫才研究会)が戦後初の東京漫才の総合団体といってよい
(小島貞二「漫才世相史」 193頁)
すこし愉快な話をしよう。大東亜戦争になってから国民は金銀を手放しダイヤを提供し、果ては銅像から鉄瓶までお上へ差し上げた。その頃のこと。総理は東条英機大将だ。首相官邸に宴会があって二、三の芸人が余興に出演した。その中に漫才で〈ゴリラ〉の真似を得意にしている林家染団治がいた。 やがて自分の出演順がきたので対人の芸人と二人で定めの場所へ出て一礼し漫才にとりかかると総理以下主客の居並ぶ客間の中央にテーブルが据えてあって花瓶に花が一ぱい飾ってある。漫才を演りながら染団治がどうも彼の花瓶はメッキではなくって本物の金だナと睨んだ。やがて漫才の喋りが終わって得意のゴリラの真似になったので『どじょうすくい』を踊りながら舞台から客席へ降りてゆき卓上の花瓶に近づいてたたいたりひっかいたり肚の中でてめえだけ金を持っていてこの罰当たりウォーッとどなった。庶民の淡い反抗だ。
終戦と晩年
当時の資料を二、三あげてみよう( 八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 より ) 。
漫才研究会々員(昭和三十年一月創立)
會 長 リーガル千太・万吉 副会長 林家染団治・美貴子 幹 事 (常任)都上英二・東喜美江 (会計)三国道雄・宮島一歩 隆の家万蔵・栄蔵(原文ママ) 大空ヒット・三空ますみ 青柳満哉・柳七穂 宮田洋容・不二幸江 (常任)大江 茂
(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 27頁)
二月十四日午後十一時会員総会を開催改めて役員推挙の結果左の通り確定す
會 長 リーガル千太・万吉 補 佐 林家染団治・美貴子常 任 都上英二・東喜美江宮田洋容・不二幸江会 計 三國道雄・宮島一歩会計監査 (兼任)リーガル千太幹 事 大道寺春之助隆の家万龍・栄龍大空ヒット・三空ますみ青柳満哉・柳七穂桂三五郎・河内家芳江浅田家章吾・雪枝桜川ぴん助・美代鶴[※「兼任連絡」の加筆有]橘晃一・橘眞理子松鶴家千代若・千代菊中禅寺司郎・滝喜世美高波志光児・光菊新山悦郎・春木艶子南道郎・国友昭二[※追記]コロムビアトップ・ライト[※追記]
二月廿五日、ニッポン放送にて幹事の座談会録音す
司会 並木一路
千太、万吉、三五郎、芳江、万蔵、光児、洋容、美代鶴、染団治、司郎、喜世美、七穂、満哉、英二、喜美江、千代若、千代菊、悦郎、艶子、晃一、眞理子、章吾、雪枝
大朝家五二郎、玉子家源一、林家染団治――若い寄席ファンにはなじみのない名前だが、いずれも漫才界の長老である。 「東宝名人会」の土曜の昼席、めずらしくこの三人の顔がならんだ。「なつかしの演芸」というタイトルだが、司会の青空うれし・たのしのインタビューが主で、かんじんの“演芸”が見られなかったのが残念。わずかに、染団治が十八番の“ゴリラの安来節”をやって、オールドファンをなつかしがらせた。この三人、いずれも大阪で修業し、震災後東京に定住したという経歴であるのも、漫才は西から、という芸能史の一コマをうかがわせて興味があった。
生没年、活躍、逸話、関係者、些細な情報でも喜びます。
情報ヲ求ム
得意の紙立てを演じる染団治
芸 風
染団治といえば何と言ってもゴリラのマネである。 彼はこの芸を看板にして五十年近くも活躍したというのだから、 如何にゴリラのマネが受けたかであろう。
本人にきいたところによると、何でも震災直後に上京したころ、九段の靖国神社の祭礼に、ゴリラの見世物があった。つぶさに観察したあげく、早速舞台で形態模写をやったところ大受けで、これを「ゴリラの安来節」にまで発展させたのが、絶対の売り物になったのだという。これで染団治は五十年メシを喰った。
(「大衆芸能資料集成 7巻」131頁)
ある時、靖國神社のお祭りにゆくと、見世物がずらりと並んで居る中にゴリラの見世物があつた。このゴリラを見て……『こいつを真似すると面白い』と。気づき、ゴリラの動作を熱心に観察、それから上野動物園のゴリラの係へと磨きをかけ、その物真似を舞台で賣物にしたところ果然ヒットして賣出したといふ。
(「朝日新聞 夕刊」1937年5月15日号 5頁)
などと、似たような事が記されている。が、 その一方で、染団治本人は、「婦人倶楽部」に掲載された「 夫婦漫才の生活打明け漫談會 」の中で、
染團治 私がゴリラをやつた動機は、富士見町の藝者でゴリラの表情をするのがゐたんです。二十一か二位のね。何處で覚えたと訊くと、靖國神社の大祭に何時でもゴリラの見世物が来る。そこへ毎日通つて覚えたといふんです。私のは舞薹でゴリラの顔をしてふざけたりするのですが、その藝者のは樫の棒を握つて立ち上るところから、物を食ふところ、そりや巧いものでした。私はそれにヒントを得たんです。 徳 田 その藝者は美人でしたか。 染團治 さうでもなかつたです。何處かゴリラに近い顔でした(笑聲)さて私は考へた。このゴリラを一つ商賣にしようと思つて、それから一週間ばかり誰もゐない所で、鏡の前で一生懸命研究しました。さうして漸く出来上がつたのですが、我ながら浅間しい表情だと思ひましたね。然しお客は引繰り返りました。(笑聲)
(「婦人倶楽部」昭和14年8月号 226頁)
また、少し言葉は違うが、「 人を笑はす商賣ばかりの座談會 」の中でも、
ゴリラが生まれるまで
染團治 どうも早く来る筈でしたが、掴まつてしまひまして――。 馬 風 君のゴリラの話をやつたらどうだらう。どういふところから考へついたか。 染團治 九段の靖國神社へ 詣 まい つた時に、富士見町へ行つたんです。いゝ 咽頭 のど の妓がゐるからといふので、交際で私も行つたんですが、確かに咽頭はいゝが、おでこでネ。それが「ゴリラをやりませう」といふんでやつたが、それが私以上なんですよ。女で、凄いもんでした。それに教はつたんです。 記 者 ゴリラの産地が違ふぢやありませんか。 染團治 或いはさうかも知れない。
(「実業の日本」昭和14年1月号 173頁)
さらに、 その見事な風貌は相方のツッコミや罵倒のいいネタの種となったそ うで、その言葉だけでも相当数存在した。
雅 子 顔の悪口は七つか八つあります。 徳 田(註・司会) 一寸こゝで並べてみて下さい。 雅 子(テレて)さう言はれると出ませんわ。(笑聲) 迚も氣の毒で……。 染團治 いゝさ。マヒしとるよ。(笑聲) 照 美 (註・千代田) どんなのがおありになりますの。 染團治 おありになるといふ程のものぢやありませんよ。(笑聲) 先づスポンヂ、豆絞りの手拭ーー(笑聲)。 雅 子 それから夏蜜柑の皮、蜜豆、杓文字、シャボテン、南京豆、 軽目焼の裏。(笑聲) 松 緑 軽目焼の裏はいゝですね。甘くて穴があいてる。 雅 子 唐モロコシの喰べ粕といふのもある。
(前述「婦人倶楽部」昭和14年8月号 226頁)
また、幼い頃から芸事に通じていたせいもあってか、 踊りや曲芸も身についていたそうで、 これらの諸芸もネタとして度々取り入れられていた。
その中でも「ドジョウ掬い」と細長い紙を鼻の上に立てる曲芸「 紙立て」は得意だった模様で、 残された文章や写真などで度々目撃する。 それらの芸は流石のゴリラには及ばなかったが、 それでも人気ネタの一つとして認知され、場所や時間によって、 臨機応変に演じていた。特に安来節は「ゴリラの安来節」という形でも演じられていたそうである。
相方にさんざんやりこめられてボヤク漫才で、キリネタはその三味線と唄で安来節を操りで踊る。小さな平笊を持ち、舌をペロペロと出しながら踊るのですが、雷門助六の操り踊りとは違った鮮やかなものでした。お終いに曲が早間になると余りない髪の毛を額にたらして、ゴリラの真似になり舞台を廻り相方の膝に抱きつくので押し倒されて終ります。ゴリラは桜川ぴん助も得意にしていましたが、染團治師の方が良く似ていたと思います。
と、いう風に舞台を勤めていたそうで、本人に直接伺った時には、「 舌出し三番叟の要領で舌を出すんですね。舌をペロリと。 これが愛嬌があってよかったですよ」と、 自らも舌を出して再現なさってくれた。