紫電と紫電改4~生産~
一機でも多く、早く前線に「紫電」を送らなければなりませんから、悠長に工場の施設を整えているヒマはありません。工場のガワだけでも、と西日本の工場を片っ端からあたって、姫路にある日本毛織のメリヤス工場に白羽の矢が立つことになりました。 昭和18年7月から、メリヤス工場を飛行機工場にかえる作業が開始されました。 試作工場の主任だった高橋元男さんなどが「姫路組立工場」立ち上げの難事業に取り組んだそうです。 紡績の機械を取り払い、ガランとした工場に組立用の治具を据えて、なんとか格好を付けると、鳴尾工場からバラバラの機体を運び込んでノックダウン生産による訓練から始めることになりました。
女性の活躍
部品を求めて
余談ですが、川西が陸上機に不慣れなこともあり、脚のブレーキの悪さは伸縮機構だけでは無かったようです。 自動車でいう「カックンブレーキ」が掛かりやすい傾向があったようなんです。自動車ならタイヤが四つもあって重心も低いから、乗ってる人が不快になる程度で済みますが、飛行機では大変です。 姿勢が高くて不安定、その上基本的に二輪なんですから、ひっくり返ったり逆立ちしたりで機体を壊してしまいます。 みんなが苦労を重ねて、やっと造り上げて整備の終った機体がテストの最後でひっくり返って壊れたのでは、工員さんたちは泣くに泣けなかったでしょう。
エンジンはさらに深刻
苦しくも楽しい?合宿労働
こうなると夜食ばかりでなく、食事は全部工場で面倒を見なければいけません。昼は馬鈴薯4個に漬物二切れなどの粗食に耐え、みんな頑張ったのでした。 娯楽など望める訳が無いと思ってしまいがちの生活ですが、張りつめているだけではかえって能率が落ちるのが人間です。川西の鳴尾製作所にも時々慰問隊が訪れました。 ディック・ミネ、三浦環などがやってきて人気があったようですが、鳴尾製作所には他ではとても真似のできない自前の演芸団がありました。それが「宝塚少女歌劇」。 劇団員って言うのか、生徒って言うのか私は知りませけれど、彼女たちは「女子挺身隊」として製作所で働いていたのです。 楽団員も同じく鳴尾製作所で働いていましたから、川西の作業服に戦闘帽で演奏して、同僚たちにしばしの娯楽を提供したのでありました。
生産ははかどらない
生産数は
「紫電」の弱点を矯正し、生産性にも十分な配慮をして設計し直したハズの「紫電改」はどうだったかと申しますと、コチラもあまり生産実績は上がりませんでした。 川西の鳴尾製作所がメインの生産拠点だったのですが、362機。姫路製作所で44機。その他の飛行機会社にも生産が命じられた筈なのですが、 昭和飛行機で 2機、愛知航空機が1機、三菱で9機、海軍第21航空廠で1機。 これには異説も(三菱、21空廠がともに約20機など)ありますが、「航空界の総力をあげて」といった感じにはなりません。
数は少なくても「紫電改」の性能は海軍の期待を上回り、目覚ましい活躍を見せました。F6F「ヘルキャット」やF4U「コルセア」といった大馬力のアメリカ機と互角以上に渡り合い、輝かしい戦果を挙げたのです。 しかし搭乗員の消耗と機材の補給が続かず、次第に戦果は乏しくなってしまいました。 その姿は優秀な艦船を取りそろえながら、シーレーン保護を忘れて徐々に劣勢を強いられた帝国海軍の縮小版のようです(泣)
コメントを残す コメントをキャンセル 紫電と紫電改3 【太平洋戦争下における日米航空産業の生産・品質管理技術の懸隔に関する考察】 -大量生産ノウハウの蓄積の観点から-電脳大本営の記事を検索します
最近の投稿
大和の酒保は開いたのか? ひめゆりの塔を汚したパヨク 片翼帰還のエースたち 駆逐艦「野分」、逃げまくる 軽巡「鬼怒」、レイテ突入成功! 武装司偵の苦闘 新司偵の系譜 戦艦「大和」内務科~帝国海軍のダメコンは駄目だったのか~ 海防艦の奮闘 最後のささやかな勝利電脳 大本営
電脳大本営で良く使われる言葉
Copyright © 電脳 大本営 All Rights Reserved.