【三国志人物伝】か(115)[槐頭・魁頭・角里(角里先生)・鄂邑蓋主(蓋公主)]
正史 ( せいし ) 『 三国志 ( さんごくし ) 』 、 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ ) 』 に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(115)[ 槐頭 ( かいとう ) ・ 魁頭 ( かいとう ) ・ 角里 ( かくり ) ( 角里先生 ( ろくりせんせい ) )・ 鄂邑蓋主 ( がくゆうこうしゅ ) ( 蓋公主 こうこうしゅ ) )]です。
凡例・目次
凡例後漢 ( ごかん ) 〜三国時代にかけての人物は 深緑 の枠、それ以外の時代の人物で 正史 ( せいし ) 『 三国志 ( さんごくし ) 』 に名前が登場する人物は オレンジ の枠、 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ ) 』 にのみ登場する架空の人物は 水色 の枠で表しています。
目次- 槐頭 ( かいとう )
- 魁頭 ( かいとう )
- 角里 ( かくり ) ( 角里先生 ( ろくりせんせい ) )
- 鄂邑蓋主 ( がくゆうこうしゅ ) ( 蓋公主 こうこうしゅ ) )
か(115)
槐頭・魁頭・角里・鄂邑蓋主 槐頭 ( かいとう )生没年不詳。 鮮卑 ( せんぴ ) 東部の 大人 ( たいじん ) の1人。
鮮卑の拡大檀石槐 ( たんせきかい ) が人々に 推 ( お ) されて 鮮卑 ( せんぴ ) の 大人 ( たいじん ) となり、 高柳 ( こうりゅう ) の北3百余里(約129km)の 弾汗山 ( だんかんさん ) 、 啜仇水 ( せつきゅうすい ) の 辺 ( ほとり ) に 庭 ( てい ) (首都)を置くと、東西の部族の 大人 ( たいじん ) たちはみな彼に帰服した。
その兵馬は勢いが盛んで、南は 漢 ( かん ) の国境地帯で略奪を働き、北は 丁令 ( ていれい ) * 1 を 拒 ( ふせ ) ぎ、東は 夫餘 ( ふよ ) を撃退し、西は 烏孫 ( うそん ) を攻撃し、東西12,000余里(約5,160km)、南北7,000余里(約3,010km)にわたる山川・水沢・塩地など、広大な 匈奴 ( きょうど ) の故地の 悉 ( ことごと ) くを手に入れた。
漢 ( かん ) はこの 鮮卑 ( せんぴ ) の勢力拡大を 憂慮 ( ゆうりょ ) し、 桓帝 ( かんてい ) の時代に 使匈奴中郎将 ( しきょうどちゅうろうしょう ) の 張奐 ( ちょうかん ) を派遣して討伐させたが、勝つことができなかった。そこで 漢 ( かん ) は、 檀石槐 ( たんせきかい ) を 王 ( おう ) に封じて和親を結ぼうとしたが、 檀石槐 ( たんせきかい ) は拒否して 印綬 ( いんじゅ ) を受け取らず、 鮮卑 ( せんぴ ) の侵入・略奪はいよいよ激しくなった。
そこで 檀石槐 ( たんせきかい ) は 鮮卑 ( せんぴ ) の領土を中部・東部・西部の3部に分けた。
脚注* 1 紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、 バイカル湖 南方から セレンゲ川 流域にかけての モンゴル高原 北部や、 南シベリア に住んでいたテュルク系遊牧民族。 丁零 ( ていれい ) ・ 丁霊 ( ていれい ) ・ 勅勒 ( ちょくろく ) とも。
東部幽州 ( ゆうしゅう ) ・ 右北平郡 ( ゆうほくへいぐん ) から東は 遼東郡 ( りょうとうぐん ) 、 夫餘 ( ふよ ) ・ 濊貊 ( わいばく ) と接する辺りまでの20余 邑 ( ゆう ) を東部とし、
東部の 大人 ( たいじん ) には、
- 弥加 ( びか )
- 闕機 ( けつき )
- 素利 ( そり )
- 槐頭 ( かいとう )
幽州 ( ゆうしゅう ) ・ 右北平郡 ( ゆうほくへいぐん ) から西は 上谷郡 ( じょうこくぐん ) までの10余 邑 ( ゆう ) を中部とし、
中部の 大人 ( たいじん ) には、
- 柯最 ( かさい )
- 闕居 ( けつきょ )
- 慕容 ( ぼよう )
幽州 ( ゆうしゅう ) ・ 上谷郡 ( じょうこくぐん ) から西は 燉煌郡 ( とんこうぐん ) ( 敦煌郡 ( とんこうぐん ) )、 烏孫 ( うそん ) と接する辺りまでの20余 邑 ( ゆう ) を西部とし、
西部の 大人 ( たいじん ) には、
- 置鞬落羅 ( ちけんらくら )
- 日律推演 ( じつりつすいえん )
- 宴茘游 ( えんれいゆう )
彼らはみな 大帥 ( たいすい ) でもあり、 檀石槐 ( たんせきかい ) に属してその指揮下にあった。
「 槐頭 ( かいとう ) 」の関連記事 魁頭 ( かいとう )生没年不詳。 鮮卑 ( せんぴ ) 族の 大人 ( たいじん ) 。 檀石槐 ( たんせきかい ) の孫。
鮮卑 ( せんぴ ) 族の 大人 ( たいじん ) ・ 檀石槐 ( たんせきかい ) が立って15年で亡くなると、子の 和連 ( われん ) が代わって 大人 ( たいじん ) に立ったが、 和連 ( われん ) には父ほどの素質や能力がなく、しかも 貪欲 ( どんよく ) ・ 淫乱 ( いんらん ) で法の 裁 ( さば ) きが不公平であったため、部下の半数は彼に 叛 ( そむ ) いた。
後漢 ( ごかん ) の 霊帝 ( れいてい ) の末年[ 中平 ( ちゅうへい ) 6年(189年)]、 和連 ( われん ) はたびたび 涼州 ( りょうしゅう ) ・ 北地郡 ( ほくちぐん ) に攻め入って略奪を行ったが、 北地郡 ( ほくちぐん ) の庶民に 弩 ( ど ) ( 弩 ( いしゆみ ) )で狙撃されて即死した。
和連 ( われん ) の子・ 騫曼 ( けんまん ) はまだ幼かったので、( 和連 ( われん ) の)兄の子・ 魁頭 ( かいとう ) が代わって 大人 ( たいじん ) に立ったが、その後 騫曼 ( けんまん ) が成長すると、 騫曼 ( けんまん ) は 魁頭 ( かいとう ) と国を争ったため、ついに部下は離散してしまった。
魁頭 ( かいとう ) が亡くなると、弟の 歩度根 ( ほどこん ) が代わって 大人 ( たいじん ) に立った。
檀石槐 ( たんせきかい ) の死後、 大人 ( たいじん ) たちの位はみな 世襲 ( せしゅう ) されるようになった。
「 魁頭 ( かいとう ) 」の関連記事 角里 ( かくり ) ( 角里先生 ( ろくりせんせい ) )生没年不詳。 秦 ( しん ) 末・ 漢 ( かん ) 初の戦乱を 避 ( さ ) けて 商山 ( しょうざん ) に隠れ 棲 ( す ) んだ4人の 隠士 ( いんし ) 「 商山 ( しょうざん ) 四皓 ( しこう ) 」の1人。
漢 ( かん ) の12年(紀元前195年)、以前から 高祖 こうそ ( 劉邦 りゅうほう )は、 太子 たいし を 呂后 りょこう の子・ 劉盈 りゅうえい から 愛妾 あいしょう ・ 戚夫人 せきふじん の子・ 劉如意 りゅうじょい に変えたいと思っていたが、 病 やまい のため政務をみることができなくなると、いよいよそれを実行に移そうとした。
ある時、酒宴の席上で 太子 ( たいし ) ・ 劉盈 ( りゅうえい ) の後ろに4人の者が従っていた。歳はみな80有余歳、 鬚眉皓白 ( しゅびこうはく ) ( 鬚 ( ひげ ) も 眉 ( まゆ ) も白いこと)の老人で、衣冠はまことに見事であった。
高祖 こうそ ( 劉邦 りゅうほう )はこれを 怪 ( あや ) しんで、「彼らは何をしている者か?」と 問 ( と ) うと、4人は進み出て、それぞれ 東園公 ( とうえんこう ) 、 角里先生 ( ろくりせんせい ) 、 綺里季 ( きりき ) 、 夏黄公 ( かこうこう ) と名乗った。
すると 高祖 こうそ ( 劉邦 りゅうほう )は大いに驚いて、
「 吾 ( わし ) は数年に 亘 ( わた ) ってあなた 方 ( がた ) を探し求めておったのに、あなた 方 ( がた ) は 我 ( わし ) を 避 ( さ ) けておられた。今、あなた 方 ( がた ) は 何故 ( なにゆえ ) 、 吾児 ( わがこ ) と一緒におられるのか?」
これに4人は口を 揃 ( そろ ) えて言った。
「陛下は士を軽んじ、よく人を 罵 ( ののし ) られますが、 臣 ( わたくし ) たちは『義』としてそのような 辱 ( はずかし ) めを受けることはできません。それ 故 ( ゆえ ) 、 逃 ( のが ) れ 匿 ( かく ) れておったのです。
ですが秘かに聞きましたところ、『 太子 ( たいし ) ( 劉盈 ( りゅうえい ) )には思いやりがあり、情が深く孝行者で、士を 恭 ( つつし ) み 敬 ( うやま ) い愛することから、天下を 遙 ( はる ) かに望んでみても、 太子 ( たいし ) ( 劉盈 ( りゅうえい ) )のために死ぬことを願わない者はいない』とか。
それ 故 ( ゆえ ) 、 臣 ( わたくし ) たちはこうしてやって来たのです」
商山 ( しょうざん ) 四皓 ( しこう ) の言葉を聞いた 高祖 こうそ ( 劉邦 りゅうほう )は、
「あなた 方 ( がた ) を 煩 ( わずら ) わせることになるだろうが、どうか最後まで 太子 ( たいし ) ( 劉盈 ( りゅうえい ) )を 護 ( まも ) り助けてやって欲しい」
4人は 高祖 こうそ ( 劉邦 りゅうほう )の長寿を祝福すると足早に立ち去った。
これは、 留侯 ( りゅうこう ) ( 張良 ( ちょうりょう ) )がこの4人を 招 ( まね ) かせた力によるものであった。 太子 ( たいし ) ・ 劉盈 ( りゅうえい ) とは、 後 ( のち ) の 前漢 ( ぜんかん ) ・第2代皇帝・ 恵帝 ( けいてい ) である。
「 角里 ( かくり ) 」の関連記事 鄂邑蓋主 ( がくゆうこうしゅ ) ( 蓋公主 こうこうしゅ ) )生年不詳〜 漢 ( かん ) の 元鳳 ( げんぽう ) 元年(紀元前80年)没。 前漢 ( ぜんかん ) ・ 武帝 ( ぶてい ) の 女 ( むすめ ) 。 昭帝 ( しょうてい ) の姉。弟に 燕王 ( えんおう ) ・ 劉旦 ( りゅうたん ) 。 鄂邑公主 ( がくゆうこうしゅ ) ・ 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) ・ 蓋公主 こうこうしゅ ) ・ 蓋主 こうしゅ ) とも。
武帝 ( ぶてい ) の 舅 ( おじ ) で 蓋侯 こうこう ) の 王信 ( おうしん ) 、またはその子・ 王充 ( おうじゅう ) の妻となったとの説があるが、どちらもこれを証明する決定的な史料はない。
昭帝の即位漢 ( かん ) の 後元 ( こうげん ) 2年(紀元前87年)に 武帝 ( ぶてい ) が 崩御 ( ほうぎょ ) し、幼い弟・ 昭帝 ( しょうてい ) が即位した。
昭帝 ( しょうてい ) が即位すると、 鄂邑公主 ( がくゆうこうしゅ ) は 湯沐邑 ( とうもくゆう ) ( 封邑 ( ほうゆう ) )を増し加えられ、 長公主 ( ちょうこうしゅ ) となって省中(宮中)で 養 ( やしな ) われた。
また、 大将軍 ( だいしょうぐん ) ・ 霍光 ( かくこう ) が 執政 ( しっせい ) して 尚書 ( しょうしょ ) の事を総領 * 2 し、 車騎将軍 ( しゃきしょうぐん ) ・ 金日磾 ( きんじってい ) と 左将軍 ( さしょうぐん ) ・ 上官桀 ( じょうかんけつ ) がこれを補佐することとなった。
漢 ( かん ) の 始元 ( しげん ) 元年(紀元前86年)春2月、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) は、 燕王 ( えんおう ) ・ 劉旦 ( りゅうたん ) 、 広陵王 ( こうりょうおう ) ・ 劉胥 ( りゅうしょ ) と共にそれぞれ1万3千戸を増し加えられた。
脚注* 2 領尚書事 ( りょうしょうしょじ ) 。実質的な権力機構である 尚書台 ( しょうしょだい ) を統括する権限を持つ。 後漢 ( ごかん ) では 録尚書事 ( ろくしょうしょじ ) 。
上官桀父子大将軍 ( だいしょうぐん ) ・ 霍光 ( かくこう ) の長女が 左将軍 ( さしょうぐん ) ・ 上官桀 ( じょうかんけつ ) の子・ 上官安 ( じょうかんあん ) の妻となって女子を生んでいたが、ちょうど 昭帝 ( しょうてい ) と似合いの年頃だった。
そこで 上官桀 ( じょうかんけつ ) は、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) の取りなしでその子を後宮に入れて 倢伃 ( しょうよ ) ( 倢妤 ( しょうよ ) ) * 3 とすると、数ヶ月で 皇后 ( こうごう ) に立てられ、 皇后 ( こうごう ) の父・ 上官安 ( じょうかんあん ) は 票騎将軍 ( ひょうきしょうぐん ) となって 桑楽侯 ( そうらくこう ) に封ぜられた。 漢 ( かん ) の 始元 ( しげん ) 4年(紀元前83年)のことである。
脚注* 3 倢伃 ( しょうよ ) ( 倢妤 ( しょうよ ) )は皇帝の側室の称号。
情夫・丁外人鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) は身持ちが悪く、 冀州 ( きしゅう ) ・ 河間郡 ( かかんぐん ) 出身の 丁外人 ( ていがいじん ) を 寵愛 ( ちょうあい ) していた。
丁外人 ( ていがいじん ) は 傲慢 ( きょうまん ) 放恣 ( ほうし ) で、刺客を使って、 怨 ( うら ) んでいた元 京兆尹 ( けいちょういん ) ・ 樊福 ( はんぷく ) を射殺させ、刺客を 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) の 廬 ( いおり ) に 匿 ( かくま ) った。そのため役人は 敢 ( あ ) えて捕らえようとしなかったが、 渭城令 ( いじょうれい ) の 胡建 ( こけん ) が 吏卒 ( りそつ ) を 率 ( ひき ) い、 廬 ( いおり ) を包囲して刺客を捕らえた。
そのことを聞いた 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) は、 丁外人 ( ていがいじん ) ・ 上官 ( じょうかん ) 将軍 ( しょうぐん ) * 4 と共に大勢の 奴僕 ( どぼく ) ・ 食客 ( しょっかく ) を従え駆けつけて、 追捕 ( ついぶ ) の役人たちに射かけたので、役人たちは 散 ( ち ) り 散 ( ぢ ) りになって逃走した。
その後、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) は 僕射 ( ぼくや ) を使って「 渭城令 ( いじょうれい ) ( 胡建 ( こけん ) )の 游徼 ( ゆうきょう ) * 5 が主家(長公主家)の 奴僕 ( どぼく ) を傷つけた」と 弾劾 ( だんがい ) させたが、 胡建 ( こけん ) は「 游徼 ( ゆうきょう ) * 5 は公務を執行したまでのこと。他意はありません」と 報 ( こた ) えた。
これに怒った 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) は、人を使って上書させ、「 胡建 ( こけん ) が 長公主 ( ちょうこうしゅ ) を侵害・侮辱し、 長公主邸 ( ちょうこうしゅてい ) の門を射た」と告発した。 胡建 ( こけん ) は「役人が 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) の 奴僕 ( どぼく ) を傷つけたこと」を知っていたので、その罪を 避 ( さ ) けて報答したため審議は尽くされず、 大将軍 ( だいしょうぐん ) ・ 霍光 ( かくこう ) はこの奏上を寝かせておいた。
鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) に恩義を感じていた 上官桀 ( じょうかんけつ ) 父子は、 丁外人 ( ていがいじん ) のために爵位を求め、国家の慣例により 列侯 ( れっこう ) に封じて 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) を妻に迎えさせようと望んだが、 霍光 ( かくこう ) は許さなかった。
そこでまた 上官桀 ( じょうかんけつ ) 父子は、 丁外人 ( ていがいじん ) のために 光禄大夫 ( こうろくたいふ ) の官位を求め、 昭帝 ( しょうてい ) の 召見 ( しょうけん ) を得られるように望んだが、 霍光 ( かくこう ) はこれも許さなかったので、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) は大いに 霍光 ( かくこう ) を 怨 ( うら ) み、また 上官桀 ( じょうかんけつ ) 父子もこれを恥じた。
脚注* 4 当時、 上官桀 ( じょうかんけつ ) は 左将軍 ( さしょうぐん ) 、 上官安 ( じょうかんあん ) は 票騎将軍 ( ひょうきしょうぐん ) なので、どちらなのかは不詳。2人共参加したので 上官 ( じょうかん ) 将軍 ( しょうぐん ) としたか。
* 5 郷 ( きょう ) 内を巡察して犯罪を防止する役人。
反霍光勢力の団結上官桀 ( じょうかんけつ ) は先帝( 武帝 ( ぶてい ) )の時からすでに 九卿 ( きゅうけい ) に 列 ( つら ) なり、位は 霍光 ( かくこう ) の上位であった上に、今は父子共々 将軍 ( しょうぐん ) となり、さらに 椒房殿 ( しょうぼうでん ) ・ 中宮 ( ちゅうぐう ) の威光 * 6 が加わっていた。また、 上官安 ( じょうかんあん ) は 皇后 ( こうごう ) の父であり、 霍光 ( かくこう ) はその外祖父に過ぎないのに、 霍光 ( かくこう ) が朝廷を専制していることから、 上官桀 ( じょうかんけつ ) 父子と 霍光 ( かくこう ) は権力を争うようになった。
また、 昭帝 ( しょうてい ) の兄、 燕王 ( えんおう ) ・ 劉旦 ( りゅうたん ) は、自分が帝位につけなかったため常に 怨 ( うら ) みを 懐 ( いだ ) いており、また 御史大夫 ( ぎょしたいふ ) の 桑弘羊 ( そうこうよう ) は酒と塩・鉄の専売制度を確立した功績を 誇 ( ほこ ) って、子弟のために官を得ようとしたが果たせず、やはり 霍光 ( かくこう ) を 怨 ( うら ) んでいた。
劉旦 ( りゅうたん ) の姉・ 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) と 左将軍 ( さしょうぐん ) ・ 上官桀 ( じょうかんけつ ) 父子は、 劉旦 ( りゅうたん ) が 霍光 ( かくこう ) を 怨 ( うら ) んでいることを知ると密かに交流し、 劉旦 ( りゅうたん ) は前後十数回にわたって 孫縦之 ( そんじゅうし ) らを 遣 ( つか ) わし、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) や 上官桀 ( じょうかんけつ ) ・ 御史大夫 ( ぎょしたいふ ) ・ 桑弘羊 ( そうこうよう ) らに多くの黄金・宝物・良馬を 贈 ( おく ) った。
漢 ( かん ) の 元鳳 ( げんぽう ) 元年(紀元前80年)春、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) を 養 ( やしな ) うのに 事 ( こと ) 欠 ( か ) くため、再び 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) の 湯沐邑 ( とうもくゆう ) ( 封邑 ( ほうゆう ) )として 藍田 ( らんでん ) * 7 を増し加えられた。
脚注* 6 椒房殿 ( しょうぼうでん ) ・ 中宮 ( ちゅうぐう ) は共に 皇后 ( こうごう ) の居所。 椒房殿 ( しょうぼうでん ) ・ 中宮 ( ちゅうぐう ) の威光= 皇后 ( こうごう ) の威光。
* 7 藍 ( あい ) を植える田。 藍 ( あい ) を刈り採った後に稲を作る二毛作の田。年貢は上田より高かった。
霍光を讒言する鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) 、 上官桀 ( じょうかんけつ ) 、 上官安 ( じょうかんあん ) 、 桑弘羊 ( そうこうよう ) らはみな 燕王 ( えんおう ) ・ 劉旦 ( りゅうたん ) と陰謀を通じて、 霍光 ( かくこう ) が休暇を取って宮中を退出した日を 見計 ( みはか ) らい、 劉旦 ( りゅうたん ) から上書して 昭帝 ( しょうてい ) に 霍光 ( かくこう ) の 過失 ( かしつ ) を告げ、 上官桀 ( じょうかんけつ ) が禁中でその文章を役人に下げ渡して事を処理させ、 桑弘羊 ( そうこうよう ) は諸大臣と共に休暇退出中の 霍光 ( かくこう ) を捕らえようとしたが、 昭帝 ( しょうてい ) は承知しなかった。
劉旦の上書・全文 タップ(クリック)すると開きます。『 漢書 ( かんじょ ) 』 燕刺王 ( えんらつおう ) 劉旦伝 ( りゅうたんでん )
昔、 秦 ( しん ) は「南面の位(帝位)」に 拠 ( よ ) って当代に活殺の権を * 8 握 ( にぎ ) り、 四夷 ( しい ) (四方の 夷狄 ( いてき ) )を威服させましたが、骨肉(一族)を 軽 ( かろ ) んじ弱めて異族(異姓)を重用し、道義を廃して刑罰に任せ、宗室は(皇帝の)恩沢を 蒙 ( こうむ ) りませんでした。
その後、 尉佗 ( いた ) * 9 は 南夷 ( なんい ) (南方の 夷狄 ( いてき ) )に入り、 陳渉 ( ちんしょう ) * 10 は 楚 ( そ ) の 沼沢 ( しょうたく ) で呼号し、 近狎 ( きんこう ) (近習: 趙高 ( ちょうこう ) )が乱を起こすなど、内外共に(反乱が)起こり、こうして 趙氏 ( ちょうし ) は 秦 ( しん ) の 祭祀 ( さいし ) を 絶 ( た ) つに至りました。
高皇帝 ( こうこうてい ) ( 劉邦 ( りゅうほう ) )はこうした事跡をご覧になり、その得失を観て 秦 ( しん ) が根本の建て方を 誤 ( あやま ) ったと見られ、それゆえその 路 ( みち ) を改め土地を区切って城を 連 ( つら ) ね、子孫を各地の 王 ( おう ) とされました。そのため同姓の枝葉が四方に広がり、異姓の入り込む余地がなくなったのです。
今、陛下( 昭帝 ( しょうてい ) )はその聖明を 承 ( う ) け成業を継いで、 公卿 ( こうけい ) に(政事を)委任しておりますが、群臣たちは派閥を 連 ( つら ) ねて宗室の名誉を傷つけ、肌身に 滲 ( し ) み込むような 讒言 ( ざんげん ) が、日々、朝廷に飛び 交 ( か ) っております。そのため 悪吏 ( あくり ) (悪い役人)が法を無視して威張り散らしているため、主( 昭帝 ( しょうてい ) )の恩徳は 下 ( しも ) 々 ( じも ) に行き渡ることができません。
臣 ( わたくし ) は『 武帝 ( ぶてい ) が 中郎将 ( ちゅうろうしょう ) ・ 蘇武 ( そぶ ) を 匈奴 ( きょうど ) に 遣 ( つか ) わした際、 蘇武 ( そぶ ) は20年にわたって 勾留 ( こうりゅう ) されても 降 ( くだ ) らなかったのに、帰還した後はただ 典属国 ( てんぞっこく ) * 11 となっただけだった』と聞いております。
それなのに今、 大将軍 ( だいしょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )の 長史 ( ちょうし ) ・ 楊敞 ( ようしょう ) は、何の功績もないのに 捜粟都尉 ( そうぞくとい ) となりました。
また、 大将軍 ( だいしょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )は 郎 ( ろう ) ・ 羽林 ( うりん ) の軍事訓練を行った際、 䟆 ( ひつ ) ( 天子 ( てんし ) が 行幸 ( ぎょうこう ) する際に通行人や車の往来を止めること)を行い、 太官 ( たいかん ) は真っ先に 霍光 ( かくこう ) に飲食を提供しました。
臣 ( しん ) 旦 ( たん ) は 燕王 ( えんおう ) の 符璽 ( ふじ ) を返上して宿衛に入り、奸臣の異変を監視したいと願います。
『 漢書 ( かんじょ ) 』 霍光伝 ( かくこうでん )
霍光 ( かくこう ) は郊外に出て 郎 ( ろう ) ・ 羽林 ( うりん ) の軍事訓練を行った際、 䟆 ( ひつ ) ( 天子 ( てんし ) が 行幸 ( ぎょうこう ) する際に通行人や車の往来を止めること)を行い、 太官 ( たいかん ) は真っ先に 霍光 ( かくこう ) に飲食を提供しました。
また以前、 匈奴 ( きょうど ) に使いした 蘇武 ( そぶ ) は20年間 拘留 ( こうりゅう ) されても 降 ( くだ ) らなかったのに、帰国後はただ 典属国 ( てんぞっこく ) * 11 に任命されただけであったにもかかわらず、 大将軍 ( だいしょうぐん ) 長史 ( ちょうし ) の 楊敞 ( ようしょう ) は何の功績もないのに 捜粟都尉 ( そうぞくとい ) とし、また勝手に 大将軍府 ( だいしょうぐんふ ) の 校尉 ( こうい ) の定員を増やしています。
霍光 ( かくこう ) の専権・ 自恣 ( じし ) (自分の思うがままに行動すること)は目に余るものがあり、『非常のこと( 謀叛 ( むほん ) )を起こすのではないか』と疑われます。 臣 ( しん ) 旦 ( たん ) は 燕王 ( えんおう ) の 符璽 ( ふじ ) を返上して宿衛に入り、姦臣の異変を監視したいと願います。
脚注* 9 秦 ( しん ) 時代に 南海郡 ( なんかいぐん ) ・ 竜川県 ( りゅうせんけん ) の 県令 ( けんれい ) 、 南海都尉 ( なんかいとい ) となり、 秦 ( しん ) ・ 漢 ( かん ) 交代期に独立して 桂林郡 ( けいりんぐん ) と 象郡 ( しょうぐん ) を合わせて 南越 ( なんえつ ) を建国した。
* 10 秦 ( しん ) 末期の反乱指導者。 呉広 ( ごこう ) とともに 秦 ( しん ) に反乱を起こし、旧 楚 ( そ ) の首都・ 陳城 ( ちんじょう ) を占領し、国号を 張楚 ( ちょうそ ) として王位に 就 ( つ ) いた。( 陳勝 ( ちんしょう ) ・ 呉広 ( ごこう ) の乱)
* 11 夷狄 ( いてき ) の投降者を 司 ( つかさど ) る官。 官秩 ( かんちつ ) : 二千石 ( にせんせき ) 。
翌朝、このことを聞いた 霍光 ( かくこう ) は、 昭帝 ( しょうてい ) の御殿の前にある 西閣 ( せいかく ) の 画室 ( がしつ ) に 留 ( とど ) まって、御殿に参内しなかった。
昭帝 ( しょうてい ) が「 大将軍 ( だいしょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )はどこにおるのか」と問うと、 左将軍 ( さしょうぐん ) ・ 上官桀 ( じょうかんけつ ) は「 燕王 ( えんおう ) ( 劉旦 ( りゅうたん ) )に自分の罪を告発されたので、 敢 ( あ ) えて参内しようとしないのです」と答えた。
その後、 昭帝 ( しょうてい ) は 詔 ( みことのり ) をもって 大将軍 ( だいしょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )を 召 ( め ) した。
霍光 ( かくこう ) が参内し、 冠 ( かんむり ) を脱ぎ頭を地面に 擦 ( こす ) りつけて謝罪すると、 昭帝 ( しょうてい ) は「 将軍 ( しょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )よ、 冠 ( かんむり ) を着けよ。 朕 ( ちん ) (私)はこの上書が 偽 ( いつわ ) りであることを知っている。 将軍 ( しょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )に罪はない」と言った。
これに 霍光 ( かくこう ) が「陛下にはどうしてそれがお分かりになられたのでしょうか」と問うと、 昭帝 ( しょうてい ) は「 将軍 ( しょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )は 広明亭 ( こうめいてい ) に行って 郎 ( ろう ) の 属 ( やから ) を演習させたに過ぎない。また 校尉 ( こうい ) を選考してからまだ10日にもならないのに、 燕王 ( えんおう ) ( 劉旦 ( りゅうたん ) )はどうしてそれを知ることができるだろうか。それに、 将軍 ( しょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )が 謀叛 ( むほん ) をしようとする場合、1、2人の 校尉 ( こうい ) に頼るはずがない」と答えた。
当時、 昭帝 ( しょうてい ) はまだ14歳であったので、 尚書 ( しょうしょ ) や左右の者たちはこの立派な返答にみな驚いた。
霍光 ( かくこう ) を 讒言 ( ざんげん ) する上書をした者たちは逃亡し、早急に 捕 ( と ) り手が派遣された。 上官桀 ( じょうかんけつ ) らは 懼 ( おそ ) れて「そこまでする必要はありません」と申し上げたが、 昭帝 ( しょうてい ) は 聴 ( き ) き入れなかった。
その後また、 上官桀 ( じょうかんけつ ) の一味で 霍光 ( かくこう ) を 讒言 ( ざんげん ) した者があったが、 昭帝 ( しょうてい ) は怒って、
「 大将軍 ( だいしょうぐん ) ( 霍光 ( かくこう ) )は忠臣であり、先帝( 武帝 ( ぶてい ) )から 朕 ( ちん ) (私)の身を補佐するように 託 ( たく ) された方である。 敢 ( あ ) えて 毀 ( そし ) ろうとする者があればこれを罪に落とそう」
と言ったので、これ以降、 上官桀 ( じょうかんけつ ) らは再び 讒言 ( ざんげん ) しようとしなかった。
自害漢 ( かん ) の 元鳳 ( げんぽう ) 元年(紀元前80年)9月、 上官桀 ( じょうかんけつ ) らは 謀 ( はかりごと ) を 巡 ( めぐ ) らして、 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) に宴会を 催 ( もよお ) させて 霍光 ( かくこう ) を招待し、あらかじめ兵を伏せて彼を打ち殺し、その機会に 昭帝 ( しょうてい ) を廃して 燕王 ( えんおう ) ( 劉旦 ( りゅうたん ) )を迎えて 天子 ( てんし ) に立てようとした。
ところが、事が未然に発覚し * 12 、 霍光 ( かくこう ) は 上官桀 ( じょうかんけつ ) ・ 上官安 ( じょうかんあん ) ・ 桑弘羊 ( そうこうよう ) ・ 丁外人 ( ていがいじん ) らをことごとく 誅殺 ( ちゅうさつ ) し、宗族の 燕王 ( えんおう ) ・ 劉旦 ( りゅうたん ) と 鄂邑蓋主 ( がくゆうこうしゅ ) は自害した。
脚注* 12 『 漢書 ( かんじょ ) 』 燕刺王 ( えんらつおう ) 劉旦伝 ( りゅうたんでん ) に「 蓋主 こうしゅ ) ( 鄂邑長公主 がくゆうちょうこうしゅ ) )の 舎人 ( しゃじん ) の父・ 燕倉 ( えんそう ) が( 劉旦 ( りゅうたん ) の)陰謀を知って密告し、事が発覚した」とあるが、宴会の件は記載されていない。
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