悲劇論ノート 第9回(リア王・シェイクスピアの反悲劇)
この作品を不条理演劇として上演したのは1962年ピーター・ブルック演出によるロイヤル・シェイクスピア・カンパニーださうだ。さう言はれると確かに、リア、道化、哀れなトム実はエドガー、の三者によつて展開する曠野の場面は、サミュエル・ベケットのテイストに近い。それは即ち世界観に由来するものであって、そのことはブルックにインスピレーションを与へたと思しきポーランドの文学・演劇学者ヤン・コットの著作『シェイクスピアはわれらの同時代人』(初版は1961)に詳述されてゐる。 コットは、不条理劇といふ言葉はあまり使はず、「リア王」は悲劇よりはグロテスク劇に近い、と言つてゐる。グロテスクな場面と言へばグロスター伯の目が抉り取られるところ(三幕七場)が昔から悪い意味で有名で、「 ええい、胸くその悪い、まるで腐つた生牡蠣のやうだ! 」(福田恆存訳、以下同じ)なんぞといふ台詞まである。もちろんコットが言ふのはより内容に関してである。
ところで第一・二幕の内容はこれだけではない。この劇には副筋(サブ・プロット)がある。グロスター伯はリーガンの夫コーンウォール公の配下だが、彼と彼の二人の息子との物語が。弟で庶子のエドマンドは開幕時に登場し、父によつて紹介されるので、重要な役割を果たすことは予想される。 その通り、彼はコーディーリア追放の場直後の第二場で、「 貴様こそ、自然だけが、俺の崇める女神、貴様の掟にだけは服する俺だ 」と独白する。庶子、即ち婚外子はこの頃でもnatural childと呼ばれたらしい。父母が自然の情欲に駆られて人目を忍んでまでした行為の結果生まれたのが俺たちだ、お義理でしてゐる夫婦間にできた子どもより優れてゐるはずではないか、と。
後でリアは言ふ「 自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮しは畜生同然のみじめなものとならう 」。この最初の行(節)の原文は‘Allow not nature more than nature needs,’で、ネットで検索できる限りの註によると、ここにはhumanが省略されているか、最初のnatureがhumanを意味するか、どちらにせよ「禁じる」(Allow not)主語は人間だとされてゐる。私は、もちろん当時の英語の知識もなく、なんとなくこれは‘If nature didn’t allow more than nature needs,’ではないかと思つてゐる。後のnatureはプリミティヴな自然状態を指し、前のほうは人間を初めすべての生物に可能な範囲(寿命など)を定める自然法則のことか、と。 この直後に具体例が言はれる。衣服が寒さ(といふ自然)から身を守るだけのものなら、なぜリアの娘たち貴婦人が当り前のやうに身に着けてゐる華美な装飾が要るのか。自然ではないもの、その総称は文化とか文明といふものこそ、人間が人間である証なのだ。
①リア「 俺を阿呆呼ばわりする気か、小僧? 」 道化「 お前さん、ほかの肩書は皆捨ててしまつたもの、持つて生れたものしか残つてはゐないよ 」
②道化「 それより俺の方がまだましだ、俺は道化だが、お前さんはなんでもない (nothing) からな 」
③リア「 誰か教へてくれぬか、この俺が誰かを? 」 道化「 リアの影法師さ! 」
欲得づくの 御家来衆は/上辺つくろひ 附いては来るが/嵐が来れば 見えもへちまも/あるものかはと お前を捨てる/俺は逃げない 逃げぬは阿呆/利巧なお方は 逃げたがよかろ/逃げたやくざは 阿呆になるが/阿呆は決して やくざにやならぬ (名訳!)
風よ、吹け、うぬが頬を吹き破れ! 幾らでも猛り狂ふがいい! 雨よ、降れ、滝となつて落ち掛れ、塔も櫓も溺れ漂ふ程に!
ここで激しい風雨に代表される荒々しい自然の力を舞台上に現出させることが求められる。これは過酷と言ふより、途方もない要求であらう。ギリシャ悲劇からシェイクスピア後のラシーヌまで、さらにその後でも、劇は基本的に室内で進行する。一番単純な理由は、今なら舞台効果で悪天候を表現するのは簡単だが、ホリゾントどころか照明さへ蠟燭以外にろくにない状態でどうしたらいいか考へたらよい。 ただし結局のところ、舞台の表現媒体は語られる台詞まで含めた俳優の肉体なのであつて、それ以外はどんなイリュージョンを与へることができたとしても、補助手段であることは変はらない。
だから、リアを演じる俳優は、理不尽に襲来する嵐になんとか拮抗せんとする人間といふ小宇宙(原文は little world of man )を、生身の演技で表現し、それを通じて大自然(natureではなく elementsと 呼ばれる。中世ヨーロッパで広く信じられていた四大元素・地水火風の総称)を観客に感得させねばならない。もちろんこれは理想論であって、固執したらA・C・ブラッドレーのやうに、リア王は上演不可能とまで言ひたくなつてしまふだらう(『シェイクスピアの悲劇』)。
そしてリアは自ら服を脱ごうとして、「 泳ぎには今夜はちとまづい! 」と道化に止められる。
上の台詞中の「 正味そのもの 」の原文は thing itself 。「物自体」と言ひたくなつて、カントを思ひ出す人もゐるだらうが、そこまでは考へなくてよいだらう。これと対立してゐる「 ごまかしの混ぜ物 」とか「 外から附けた物 」から考へると、「人の本来の姿」ぐらゐの意味とわかるが、ではなぜそれをhuman natureと言はず、 thing itself としたのか、本作内のnatureの使はれ方をもう少しよく考へるべきだろう。 natureは前述の他に、人間の情(親子の情、など)、性質、肉体、などの意味でも使はれ、さうかと思ふと現代日本語で「大自然」と言ひさうなところにはelementsが使われてゐたりする。このへんの突込んだ考察は面白さうだが、と言ふか、もう既にあるに違ひないが、私はさういふ論文を探して参照するほど緻密な人間ではない。
いい時代になつて、OEDの定義も、歴史的な語義の変遷まで記したものがネット上で簡単に閲覧できる。意外なことに The vital or physical powers of a person (人間の生命力あるいは肉体的な力)が最初に出てゐる。これには期間が1275―1592とあつて、これはこの年代の書籍で確認できる、といふことだから、シェイクスピアの時代にはもう古びてゐたかも知れない。 以下をパラパラ見て行くと、1390年以来今日までのものとして Usually with capital initial. This power personified as a female being. Frequently as Dame Nature or Mother Nature. (通例大文字で始まる。この力は女性として擬人化される。しばしば、自然の女神とか、母なる自然とか)といふのがあつた。これがエドマンドの信じる「自然」であらう。「リア王」中では大文字で始ってははいないが、 my goddess とも呼ばれてゐるし。そして「擬人化」といふことは、もう人間の力とは明確に区別されてゐるといふことだ。 他でも何度か見かけたので、どうやらこれが標準的な語義とされてゐるらしいのは1400年以後の The phenomena of the physical world collectively; esp. plants, animals, and other features and products of the earth itself, as distinguished from humans and human creations. (総体的に物理世界の現象。特に、人間および人間の創造物とは区別されたものとしての、植物、動物、および地球自体のその他の特徴と産物)。
ポイントは「 人間および人間の創造物とは区別されたもの 」、と言つても前述のやうに、人間の肉体や性格まで含まれる。対義語はたぶんart(人為、人工)で、その基になる理性も当然natureには含まれない。 つまり、人間が作ったものではない、人間にとって所与のもので、従つて少なくともさう簡単には変へられないものを示す。いや、肉体も性格も外界も変へられるではないか、と言はれるかも知れないが、それは表面的なところに止まるのであつて、人間を含めたもの自体の本質は変へやうがないのだ、とする感覚がここには込められてゐる。
人間の内にあつても外にあつても、変へやうがないもの、それが「物自体」。そこには意味はない。あつたとしても、人間にはわからない。ただそこにあるだけ。これに直面するには、理性は邪魔だ。狂気こそが必要。衣服まで含めた普通の意味で人間的なものすべてをまがひ物、虚飾として捨て去らうとするまでの。
とはいへ、人間最大の作り物(フィクション)である言葉はさう簡単には去らない。リアは、「 正味そのもの 」だとしたエドガーを、すぐ後でテーベ(テーバイ)の碩学とか学識高き裁判官などと呼び、彼にゴネリルとリーガンを裁かせようとする。 「 正味そのもの 」=「ただそこにあるもの」が何かを罰したり救済したりはしない。正義も惡も、人間同士の約束事、即ちフィクション内部の話である。しかしその内部で人が一定の役割を果たさないとしたら?
ここの言葉は意味よりも無意味を伝へ、宇宙の根底である「ただそこにあるもの」の存在を感じさせるやうだ。いかにも不条理劇の世界観を思はせはするが、それ以外の要素もこの作品にはある。