. 1回「決意の引退」 – WEB Mr. Bike
1回「決意の引退」 – WEB Mr. Bike
1回「決意の引退」 – WEB Mr. Bike

Без кейворда

清成龍一は、いったいいつ戻ってくるのだろう? 清成の口から出た言葉は、驚くほどストレートだった。 「引退を決めました。このインタビューで発表とさせてください」

■生い立ち

父親の力は絶大で、幼少期は正座して父の話を聞くのが清成家のルールだった。「ちょっと、来い」と呼ばれ、正座すると「レースをやるから」と言う。バイクに乘ることが嫌だとは言えなかった。父親たちは、子供たちが参戦出来る草レースの情報を集めて、移動用のコースターを購入、3家族が集まり家族でレースを始める。最初はオフロードが中心だった。 「今なら、危ないから走っちゃダメでしょうという声が上がると思いますが、当時は、何でもありで、山の中のコースを走るんですが怖かったです」 小学校低学年から、学校に行く前の朝のランニングを父に課せられる。弟健一と出かけるが、走らずに隠れる場所を探して、時間を過ごして家に戻ることも多かった。時々、さぼっていることがばれて怒られた。「今日はランニングではなくて、学校で懸垂していた」と嘘の言い訳が上手くなった。 小学校高学年になるとプロライダー育成を目的に開設された鈴鹿レーシングスクールジュニア(SRS-J)に入ることを父が決めた。姉も清成を追うように入り、弟健一は自らの意志で入学を決めた。姉はケガをしたことでレースを辞めている。 「SRSに入る前は、夏は海、冬はスキーと家族旅行に出かけていたのに、SRSに入ってからバイクばっかりになった。面白くないですよ。嫌で嫌で仕方がなかった」

実家の近くに桶川スポーツランドがあり、正月の2日から走りに行くようになる。清成の思いとは裏腹に父は本気だった。時間が出来ると桶川に通った。連れて行ってくれる父は、仕事の疲れもあり、車で寝ていることもあったが、休日はバイクに乘ることが当たり前の生活になる。父が同行出来ない時は母が連れて行ってくれた。成長すると送り迎えだけになり、健一と練習に明け暮れた。 SRSにはモリワキエンジニアリング創業者の森脇 護氏の長男尚護もいた。清成と年が近いこともあり、一緒に過ごすことが多く、鈴鹿の森脇家に泊めてもらい、尚護とは兄弟のように過ごした。

■1996~1999

1996年には筑波選手権、鈴鹿選手権GP80でチャンピオンとなり、1997年には筑波選手権GP125Bクラスチャンピオンとなり、1998年は全日本に昇格する。1998年SRS-J期待のライダー澤田 令選手が全日本筑波の事故で亡くなる。同チームに所属していた16歳の清成にとっては衝撃的な出来事だった。 「他に覚えていることは、雨のレースでシールドが曇るからマスクをするってことを知らなくて……。ヘルメットサービスに出かけて購入したいとお願いしたけど、販売店ではないから売れないと断られ、マスク無しでレースに出たら、前が見えなくて……。予選落ちして先生に怒られたこと。良いことは何もなくて、レースもバイクも好きになれなかった」

1999年も全日本に参戦するが、結果は残らなかった。 だが、ロードレース世界選手権(WGP)の映像や雑誌は見ていた。幼少期から自宅には父が購入したレース専門誌が山のように積まれ、レースのDVDもあった。 清成は「坂田和人さんが、WGP125で活躍していて、すごいバトルをしていたので、超すげぇ~、面白いなぁ~」と楽しんでいたと言う。ここから数年後には、誰よりも熱心に映像を見て研究するようになるのだが、この時はそれを自分の走りに生かそうとか、学ぼうという意識はなかった。 「バイクは、怖いし、うるさいし、夏は暑いし、冬は寒いし、転んだら痛いし、何が楽しいんだって感じでしたね。でも、あ~、勝つと嬉しいし、楽しいなとは少しは思いましたけど、何の努力もしていないので、負けて悔しいとも思わなかった。全日本に参戦した2年間は、一桁入賞したのは1回か2回くらいで、少しの楽しみもなかった」 1998年ランキング26位、1999年ランキング23位だった。

■Team高武-2000

SRS-Jチームは、澤田の事故からチームを立て直すため、清成の受け入れ先を探していて、1998年のオフにチーム高武に「清成を走らせてくれないか」と連絡が入る。 チーム高武は九州熊本にあるホンダの二輪と四輪のレースに参戦した高武富久美が設立したホンダ系の有力サテライトチーム。四輪やオフもやっていたが、ロードでは、宇川 徹、柳川 明、加藤大治郎、玉田 誠、中冨伸一らがいた。清成と同世代では徳留和樹、森脇尚護らが所属することになる。 チーム高武のメカニックである柳本眞吾は「清成を預かってくれないかと打診があった。チームには玉田、中冨が絶賛成長真最中で、他のライダーを見る余裕がなかった。それで、社長にメカニックを増やしても良いか?と打診したら、いいと言われて、その時、入ったのが整備学校を卒業したばかりの児浪 大で、児浪が清成の担当になった」と言う。

柳本の目には地元の友達と遊び、その合間にレースをしているように見えた。柳本は「まだ17歳で危機感がないのは仕方がないが、何をしたいのかよくわからない」とオフに清成宅を訪ね「九州に出て来ないなら、もう面倒は見られない」と伝えた。見捨てても良かったのかもしれないが、何かひっかかるものがあった。 「雨が速かったんですよ。晴れだとポイントも取れないのに、雨だと6番手位を走ったりする。癖が強かったから、何か持っているものがあるんだろうな」 ベテランメカニックはそう感じていた。

■2001──全日本

ここには2000年全日本スーパーバイクランキング3位の玉田。2000年全日本250チャンピオンの中冨がいた。 中冨は後輩ライダーとして同クラスに参戦する清成に「コースを先導しようか? 何かあれば聞いて」と声をかけた。 「ついてくれば良いのに、絶対一緒にコースインしなかった。最初から自分をライバル視しているのを感じていました。そういった意味では、芯がある奴という印象でした」 負けん気の強い清成のことを覚えている。 玉田は「初めて会った時は、子供だった。まだ、16~17歳でしょう。先輩らしいことは何もしていなくて、バイトが終わると、メカニックの児浪もつるんで、原稿には残せないような悪い事ばっかりを一緒にやっていました」と振り返る。 玉田と中冨は1~2年間を清成と一緒に過ごし、玉田はホンダワークスへ、そして中冨はヤマハファクトリーへと巣立って行った。

高武の2階にあるエアコンを清成がつけっぱなしにしてしまったことが、高武社長の逆鱗に触れ、連帯責任で、そこに住んでいた全員が追い出される事件が起きた。 清成はアパートを探し一人暮らしを始めるが、その部屋はすぐに同世代の友人たちのたまり場となる。何もかも中途半場な清成だったが、アルバイト先のガソリンスタンドの店長が可愛がってくれていた。 レースはいまいちだが、アルバイト生活も一人暮らしも、実に快適だった。 だが、店長から、「お前、このままでいいのかよ」と問いかけられた。 レース結果は残らず、そこにフォーカスしきれない自分を持て余していた時期だった。 「自分のせいで、高武で暮らせなくなってしまった人のことや、2年も鳴かず飛ばずで、それなのに皆、諦めないで怒ってくれていた。親も資金援助してくれていた。自分って一体なんなのだろうと思っていた時に、店長が“生活の乱れは心の乱れだぞ”って……」 その言葉が清成の胸に刺さった。生活を一新して、言葉使いも生活態度も変えた。

清成は自ら高武社長に頭を下げて、高武の2階へと戻る。アパートにたむろする友人たちとの縁を切った。 「負けたら自分のせいだし、転倒も自分のせい、絶対言い訳しないと誓った」 自分はレース以外に、向き合うべきものがないということをやっと認めた。このままでいいとは思っていないのは自分だったことに気がつく。やっとレースに向き合う覚悟が出来た。

しかし柳本は、清成の親からもう援助は難しいと相談されていた。 柳本は「アイツは4ストが乗れるんじゃないのか」と考えた。高武社長も「4ストの方が合う」と後押ししてくれた。ST600(CBR600F4i)なら支援者がいると清成の参戦を、柳本は親と相談して決めた。 清成に異論はなかった。(続く)

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