宇佐美なつ『し-せい』記
7月11日。朝からずっと緊張している。どうして他人のことにこんなに緊張しているのかわからない。道玄坂のサンマルクカフェを出ると、緊張はいよいよ胃の痛みを感じるまでに高まってきた。暑すぎるからだろうか? というか、自分のことでもこんなには緊張しない。冷房で冷えすぎたか? 自分の緊張だったらどうにかしようもあるのだが、他人のことはどうしようもない。とりあえずそろそろ開演だから坂を登って劇場に入る。中に入ってもずっと落ち着かなくて、あんまりそわそわしているから友人たちに怪訝な顔をされた。 とにかくこの日は、緊張していた。
M1から追っていく。 アンビエントなシンセに乗せられた、ささやくような女声ボーカルが浮遊するように響いているイントロが暗闇に流れ出して、舞台が明転する。すると、盆から本舞台のほうへと一歩を約2拍にゆだねて進んでいる宇佐美の後ろ姿が現れる。頭部からは膝下にまで伸びるクリーム色のうすいヴェールが垂れていて、その奥には白いドレスを纏っているらしい。 イントロが終わるや振り返り、ダンスパートが始まる。まず目を引くのはシャープなシルエットのドレスの優美さ。首周りから肩を通って体の中央を足元まで覆う瀟洒なフリル。レースは装飾のない箇所でほのかに素肌を見せてもいる。くわえて、ドレスの下には黒いセットアップの下着を身に着けていることも覗える。 さらに先のヴェールは、端を左右の小指にリング状のパーツで装着されているようで、手や腕を振り上げるとヴェールは動きに連動して軌跡を描き、旋風のようにせわしなく動き回る……。これが今回の試みのひとつだなと納得する。
M2。一転、選曲は男声のラップになり、優美なドレスは早々に脱ぎ捨てられる。下手端での背中を向けながらの脱衣。ここは、演目内での特筆すべきシーンだと思う。ドレスを袖に投げて処理し、次いでヴェールを頭から取り外すと、さっきまで視界に入ってもいたはずの黒い下着が、たった一枚の薄い布を払っただけにも関わらず、その素材の光沢の感触とともに際立って鮮烈に浮かび上がってくる。ここがすごい。 どうしてだろう。そもそも、ヴェールのクリーム色、この色合いの衣装はめずらしいのではないか。原色やネオンカラーといった、いかにも高輝度の照明に映えるだろう色使いでなく、淡く、微妙な色。写真や映画で被写体をやわらかく写すために「紗をかける」、という技法があるけれども、それ以上に、この下着の現れを突出したものにみせるコントラストを演出する効果があったように思う。 この下着の現れについて、ちょっとこだわりたい。 当たり前のことだけども、「衣装を変えた姿」を見せるためには脱衣と着衣の二段階の手数が必要になる。言うまでもなく。これは舞台上で行うこともあれば、袖に引っ込んで着替えることもある。あるいは、大判の衣装(和服など)の下にまったく違った衣装を身に着けているパターンなども、しばしば見られる。だが、このシーンにおいての下着姿は、あらかじめ目に入っていたはずの下着が、ことさら際立って独立した「衣装」として現象することに特異性がある。そう、下着姿は裸体への過程にあるのでもなく、意志を持って選択された、自律した姿としてそこに提示されているかのようなのだ。 下着の上にはシースルーのワイシャツが羽織られる。なるほど透け感のあるドレス/下着とシースルーのシャツ/下着のズレを伴った反復が構成されてもいる。ここはまあ、穿った見方でもあるか。 M1に比べて踊りの手数はかなり控えめで、盆上に進めば膝をついて髪をまさぐったり、横向きに膝を抱えて客席の方へ視線を送ったりするだけの時間が流れていく。気づけば男声ラップのヴァースから、女声の明瞭な発声のメロディックなフックに移行している。このボーカルがまた、泣かせるような声だ。断片的に、歌詞が耳に飛び込んでくる。振り返らない、後悔、夢は醒めた、というようなワード。歌詞から演目の内容を解釈するのは、具体的な踊りを捨象することになってしまう危うさもあるけど、動きに伴って歌が強く耳に飛び込んでくるのもまた事実で、その経験の確かさを追ってしまう。
暗転したままM3が始まる。弦楽器を爪弾くような音や、テープが逆回転するような音や、それとは指呼しがたいノイズが乗った音の重なり。ドラムの音が入ると、舞台が明転。背中を向けたまま、膝を抱えてうずくまるような姿が現れる。衣服はすでに何も纏っていない。しかし、体の下に透明な生地の、おそらくはベッド着であるだろう衣装が敷かれているのも見える。幽き、とでも形容するのがよさそうなほど、はかなげにささやくボーカルが入ると、膝は立てたまま残し、ばたりと上体を仰向けに倒し、両手を宙に伸ばしての踊りが始まる。 前半とは打って変わって、この曲の歌詞を判明に聞き取ることはほとんど不可能だ。具体的な言葉を拾い上げることができないから、動きが何かの意味を伴っているのか判断することが難しくなっている。そしてまた、ベッド着に袖が通されると、そのベッド着の特異なことにも気付く。透明な生地にいくつか大きな穴が空いていたり、あらぬところにふくらみがあったり、どう着るのが正解なのかまったく掴めないような、いっそアンフォルメルなとでも言ったほうがよさそうな衣装であるらしい。多義性。これかと思った。 また、穴の周囲にはピンク色のフリルが苔状にあしらわれており、深海生物か秘境の植物か、どうにもこの世ならぬ雰囲気を漂わせている。 本舞台で、フロアの左右へ身体を投げ出すように踊るシークエンス。曲の盛り上がりに応じて立ち上がると、何かから開放されたように回転し、盆上へと躍り出る。溜めた力をいびつに放出していくように、上体は横ざまに倒しながら捻りをくわえ、両手がY字に、じりじりと──やはり植物の成長を微速度撮影で捉えたような──伸ばされていく。M1では、ヴェールを使った踊りとはいえいつも通りの「宇佐美なつ」の文体だった。M3はまったく違った、たとえば舞踏的な力の配分とでも言えるだろうか、いずれにしても2拍ずつ曲を刻んだりするような曲との強い同期ではなく、いつもとは別様に音楽/踊りの関係を捉えなおそうと試みている。ここを「踊り」として見せるのは、"間の持たなさ"に苦吟してきたこれまでの振付歴の過程を思うと、とくにチャレンジングなパートだったはずだ。 最後は力尽きたように盆に伏せ、曲は終わる。
今回の演目で注目したいのは、顔の扱い。これだ。最初のポーズでは、形を維持しながら、頭はやや左方向に逸らされるようにして、若干うなだれるとでもいえるような形で保持されている。盆は回転しているから、その表情が完全に見えないわけではないにせよ、少なくともそのポーズをどのように受け取るべきかを補助する有意な表情は読み取れない。このこと。 立ち上がりでのこうした顔の──とりわけ読むべきは表情なので頭の向きのことだとしても「顔」と統一するが──扱いはほとんど一貫している。スワンであれベッド着の持ち上げを伴って視線をそこに集めているし、エルに至っても、足先でベッド着をつまみ、それが盆外に垂れる光景を演出していて、顔を見せることが都度びみょうに避けられてもいるようなのだ。 思い出してみるなら、この演目は冒頭から背中を向けて始まり、M2でも振り返った後ろ姿で暗転し、M3も背中を見せたままうずくまる姿から始まるという、顔が希薄になるような仕方で演目が進められていることにも気づける。しかし、顔の希薄さとはいったい何を意味しているのだろう。
片膝を着いたブリッジ(やはりその表情が掴めないポーズ)を最後に、ポーズのシークエンスは閉じられる。ベッド着から袖を抜いて、まるで抜殻/亡骸かのようにして腕に抱えたまま、それを静かに床に横たえる。そうして文字通り一糸まとわぬ姿のまま、盆のつらにほど近い場所で、正面をしばし見つめて立ち尽くす。ここでようやく観客は、あらためて顔をはっきりと眼差すことになる。だが、その顔はごく慎重に、その顔へと殺到する意味を抑え込むようなものに見える。そう、意味するものが何もないのではなく、特定の意味を選ぶことがないようにすべてを飲み込もうとする顔。 もちろん、そうした解釈は主観的なものに過ぎないと言われれば、確かに明瞭に反証する根拠は持っていないと言わなければいけない。「そう見える」ということから一歩も出てはいないのかもしれない。ただし、そこに有意で特権的なひとつの意味を与えるに足る根拠も、ないように思える。『し-せい』というタイトルが一義に確定できないように、溢れ出てくる意味が背後に控えている。 そうでなければ、どうしてこうなっているのか? ラスト。冒頭のように、そして何度も繰り返してきたように背中を向けて本舞台の方へと歩み去っていく。ここでの溶暗は、盆から足を花道へ踏み出してすぐに始まり、ほぼもう一歩を踏み出そうとするかどうかというタイミングで、余韻を断ち切るように早々に暗転しきってしまう。ピアノの響きだけが暗闇にかすかに残っている。