パノラマの街/小田和正・桜井和寿(Mr.Children)
正直、小田氏との声と桜井氏の声はどちらも特徴的なのでハモりには向いていないと思っていたのだけれど、 どちらかがハモるとき、両者とも“声のオーラをなくす”技術にすごく長けていて、聴いていて心地よかった。 そしてメインに徹する側も、メロディーに溶け込むように歌い、この時ばかりは個性よりも、「小田和正×桜井和寿」という楽曲の世界観を優先した歌声になっていたように思う。 まあ、桜井氏に限っては最近の楽曲が既に個性より“歌”重視になっているけれど。
映画「青天の霹靂」主題歌に決定した新曲「放たれる」のコメントでもあったけれど、 Mr.Childrenとしての曲が「ただ寄り添うだけの最良のBGM」となることを桜井氏は願っていて、きっとそこに“桜井和寿”という存在を出し過ぎないようにしたいんだろうなあ、と思う。 「REM」もそうで、「ニシエヒガシエ」や「光の射す方へ」「フェイク」なんかと比べてると作家としての比率が非常に高い楽曲だと思う。 とはいえ、「SENSE」は、その作家としての可能性を容易く超えてしまうぐらいの傑作だったんだけど(個人的には) 話は脱線を続けるけれど、個人的には次のアルバムは「IT'S A WONDERFUL WORLD」みたいなものになるんじゃないかと思っている。 つまり「作家としての桜井和寿」がふんだんに鏤められた、情景描写が豊かで、ジャジーでアダルトなもの、繊細な楽曲が多くなるのでは、と(勝手な妄想)。 あと、GAKU-MCとユニット活動をしているUKASUKA-Gの新曲「春の歌」でも感じたけれど、譜割りやリズム、目一杯に言葉を詰め込む作業、とても上手だよね。 心にスッと流れ込んでくる譜割り、リズム。
話を戻して、「パノラマの街」は、そんな「作家」と「作家」が共同制作した名曲になるのだけれど、 初っ端に書いたような「作家としての限界に刹那を感じるシーン」がある。 「横断歩道を渡る人たち」同様に、この楽曲には、そういう“誰もが一度は通り過ぎる感情”を描き出している。
結局、過去の自分は超えられない。 若い感性には敵わない。 老いは、若きを繋げていくものにすぎないから。
スポーツだってそうだ。 ある時から人は、伝えていくこと、つなげていくことに、気付かなくてはいけなくなる。 「シャーマンキング」って漫画に確かこんな台詞があったと思うんだけれど、つまりは「天井が見えてしまう」ということ。
過去の自分の型に嵌められて、その枠から抜け出せない。 だって、その経験こそが、作品こそが、いまの自分を物語っているのだから。 おそらく永遠に、リスナー(大きく捉えて、受け手)は過去の作品との比較を続けるであろうし、自分もそうなのだろう。
僕はいまそこに限りない絶望を感じているのだけれど、 決してその老いが終焉を表しているわけじゃないことを誰もが歌っている。 この楽曲の主人公だってそうだ。
エレキギターの柔らかに歪んだスライドと、アコースティックギターの心地よいストロークで、物語のイントロが奏でられた「パノラマの街」は、 なだらかなストリングスと、かわるがわるハーモニー、群像劇のように場面は切り替わり、大サビで視点は一気にズームアウトする。 そして、ラストはピアノを基調として言葉を大事にするように上記のフレーズが綴られる。
“何度も歌ってきた歌”は決して変わらないものではなく、それすらも変わっていくもの。 飽きもせず、懲りもせず、それでも考え過ぎずに、鼻歌なんかみたいに気軽に口ずさんでみれば、 それは新しい世界を切り開くきっかけに、もしかしたら、もしかしたらなるのかもしれない、と。
希望でもなんでもないのだけれど、ほんのわずかな幸せと優しさとして、この楽曲はある。 日常の、刹那に寄り添った、あくまで限りなく希望に近い、でも希望じゃないヒントを僕らにくれる。 “もしかしたら…”を与えてくれる
「小田和正×桜井和寿」だからこそ、完成された楽曲なのだろうな、と思う。 おそらく詞や曲のベースは桜井氏が考えたものなのだろうけれど、なによりアレンジ、世界観の構築がMr.Childrenにはないものになっている。 これはきっと小田和正氏のスパイスあってこそなのだろうな、と。
話変わって、この「クリスマスの約束2013」のOPだった「the flag(小田和正)」が素晴らしい曲だったので、好きなフレーズを書いてこの記事を終えます。 過去の自分は超えられないし、老いは悲しくも苦しいものだけれど、なにかを諦めてしまうことは、どこか違うような気もしている。