No.010【対話 日本の詩の原理】『戦後思想からポストモダニズム思想へ―吉本隆明篇』(三 全四回)池上晴之×鶴山裕司×萩野篤人【H】
鶴山 リテラルに音韻にこだわった詩人たちに中村真一郎や福永武彦のマチネ・ポエティックや那珂太郎さんらがいます。マチネ・ポエティックの詩人たちは押韻詩を書いた。難解な現代詩は黙読の書き文字詩ですから全般的に音韻には無関心だった。ただ押韻とリズムは別です。厳密に言うと押韻は音韻ですが五七や七五はリズムです。短歌や俳句で定型になっているので音韻とも呼ばれるわけだけどあれはリズム。意図的にリズムを一定の音韻に近づけた詩に那珂太郎『音楽』や谷川俊太郎『よしなしうた』などがあります。でもそのやり方で詩を書き続けるのは難しい。賢治文学は音楽性が高いわけだけど、マチネ・ポエティックや那珂太郎、谷川俊太郎さんのように意図的にやっているわけじゃない。賢治の内在的音楽性が音韻・リズムになって表れたとしか言いようがない。詩における音を考える場合は、それこそ吉本さんが『言語にとって美とはなにか』でやったように広義の自己表出性と指示表出性に分けた方がいいと思う。作家性からでも修辞からでも音韻は生まれます。焦点は単純でそんな作品が魅力的かどうかということですけど。
池上 なるほど。日本語の伝統的な詩歌は、ほとんど無意味な詩句でも音数律、つまり七五調によって意味のある表現ができるところが謎でもあり魅力でもあるわけですが、「荒地」派の詩は、田村隆一は独特の内在的なリズムがあるからちょっと別なんですけれど、意味を表現しようとした反面、音韻や韻律の問題については切り捨てたわけです。でも吉本隆明や菅谷規矩雄は音数律の先にあるもの、つまり七五調を喪失した現代詩における音韻や韻律の問題を考えようとしたんだと思うんです。その結果、結局は日本語の問題に帰することになるわけですけれどね。吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』で、何をやったかということについて自分でこう解説しています。
萩野 吉本さんは講演や対談で聴衆や相手に向かって話をされる時は比較的わかりやすいですね。じっさいに話をされてから本になるまでにはもちろん手が入っているのでしょう。けれど僕自身、生で吉本さんの講演を聴いた時の印象も本で講演録を読んだ時のそれもどちらもわかりやすいんです。ところが、はじめから書き言葉というか書下ろしで書かれた文章を読むと、とたんにわかりにくくなる。
池上 批評にも文学体と話体がある。
萩野 そう。文語と口語くらいに違うんです。だからいつも話体で書けばいいのにって思います。書き言葉でないとどうしても伝えられないものが吉本さんの中にあったんでしょう。それはそれで理解できなくはないんですけど、読者は悩みます。これから吉本隆明の思想について知りたいという人に僕がおすすめするのは、まずは講演録や対談集から入るといいですよってことです。文庫で何冊も出ていますし。
池上 本当にそうですよね。鮎川信夫篇の時にお話しした一九八二年九月二十六日の思潮社二十五周年記念の「詩のカーニバル・詩はこれでいいのか」という西武劇場で行われたイベントで、吉本隆明が「若い現代詩――詩の現在と喩法」という講演をやって、講演録が「現代詩手帖」の一九八二年十一月号に掲載されたんですが、これは現在は『吉本隆明〈未収録〉講演集〈10〉詩はどこまできたか』で読めます。一方、この講演を基にした同タイトルの評論が思潮社版の『戦後詩史論』に入っています。この両者を読み比べると、これもはるかに講演のほうがわかりやすいんです。吉本隆明には批評を書く際にわざわざわかりにくくしたいという意図があったんでしょうか。
鶴山 それはないでしょうね。文章では吉本さんは一つのテーマを可能な限り厳密に分析しようとします。この分析は手順を踏んだ緻密で論理的なもので 専門用語 ( テクニカルターム ) も必要になる。ただこの 専門用語 ( テクニカルターム ) がえらく厄介でたいてい吉本さんのオリジナルです。吉本さんの中では整合性が取れていて一貫しているんでしょうが、批評対象や内容によって次々生まれて来る。「修辞的現在」のようにピタッとはまることもあるけど全部を正確に理解するのはほぼ不可能です。一方で吉本さんの分析は正確だから、分析結果としての結論(結果)は単純でわかりやすい。分析しても相変わらず謎だとそれは分析が間違っていたことになるからね。講演「若い現代詩」と『戦後詩史論』「若い現代詩」のどちらが先なのかわかりませんが、結論は同じでも手順が違うということでしょう。
池上 ああ、確かに評論のほうが先に書かれていて、講演でその話をした可能性はありますね。いずれにしても、これから吉本隆明の評論を読んでみようという人は、まず糸井重里さんのウェブの「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されている「吉本隆明の183講演」をチェックするといいと思います。記録が残っている吉本隆明のほぼすべての講演の音声データとそれを文字起こししたテキストが掲載されています。一九六四年の「芸術と疎外」という講演以降、二〇〇八年の「芸術言語論――沈黙から芸術」という講演まで、吉本隆明が評論で書いたテーマが網羅的にあって、文字起こしはラフなものもありますが、評論よりずっとわかりやすいです。音声も聴き取りづらいものもありますが、吉本隆明の話の魅力がわかると思います。小林秀雄も講演の音声を聴くと話がうまくておもしろいですけれど、吉本隆明は説得力がすごいんですよね。あと声としゃべり方がいいですね。ちょっと丸みがあって、訥弁のようだけどユーモラスなんです。ぼくが高校生の時に聴いた「現代詩の思想」という講演の文字起こしも掲載されていますし、「若い現代詩──詩の現在と喩法」は録音の状態が比較的いいので音声で聴いてみるといいと思います。
鶴山 『戦後詩史論』は詩史論としては出来が悪いと言いましたが吉本思想を論じる上ではとても重要な本です。出来が悪い理由は戦前プロレタリア詩経由の思想詩として戦後詩を厳密に読み解いている一方で、画期的言語実験だった現代詩の検討を一切欠落させていることにあります。思想詩は戦前からありました。しかし複雑に膨れ上がっていく戦後社会をパラレルな像としてほぼ純粋な言語構築物として表現しようとした現代詩はそれまでになかった。二〇世紀後半に初めて登場した。だから難解にも関わらず現代詩が同時代文学にショックを与え短歌俳句や小説にまで影響を与えることになった。でも見方を変えれば思想を追う吉本戦後詩史論は正しかったとも言えるんです。
池上 これも今でもよく思い出すんですけれど、さっき言った「〈若い現代詩〉について」という講演の中で、吉本隆明は、「詩はこれでいいのか」というシンポジウムで鈴木志郎康が中島みゆきについてコメントしたことに関して強く反発したんです。
鶴山 今でも鈴木さんのようなことを言う詩人はいるね。でも金が欲しいなら詩じゃなく少なくても小説を書いて多少でも原稿料を稼げるようにしたらいい。金儲けといっても文学じゃたかが知れてるから、とっとと文学なんかやめて実業に専念した方がいいね。文学は無償の精神的賭け金の高さが問われる面がある。それがわからないなら文学なんて、特に詩なんて今すぐやめた方がいい。
池上 この時期からの吉本隆明は「現在」を捉えることを最大のテーマにしたんだと思うんです。だから「修辞的な現在」というタイトルだったわけですけれど、当時の詩人たちは「修辞的」というほうに力点を置いて詩論として読んでいて、吉本隆明が考えている「現在」を捉える視点についてはあまりピンと来ていなかったんですよね。
萩野 『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』には当時賛否両論がありました。あそこで吉本さんはポストモダン社会に取り残されたんだと批判する人もいた。
鶴山 ん、逆だと思うよ。ポストモダン社会を捉え始めた仕事でしょう。
萩野 僕自身はもちろんそう思っています。日本でポストモダンという概念が流通しはじめたのは、具体的には一九八三年に浅田彰さんの『構造と力』が人文書では異例のベストセラーになったことがきっかけだと思います。『構造と力』は思想書や哲学書というより、フランスを中心とした現代思想の見取り図を示した啓蒙書ですが、当時そんな本を書けるほどの人はいなかったし、いまもいないかもしれませんけど、それで「ニューアカデミズム」なんて言われて最新流行のハイブランドモノに飛びつくようにサラリーマンまでこぞって読んだ。その後もフーコー、ドゥルーズ、デリダっていうだけでその思想をよくわかりもしないのに追いかける人がいっぱい出て来て、かれらのタームを使わなければ夜も日も明けないという時代がありました。そんな中で迎合しない吉本さんの方法や表現が古びて見えたんでしょう。たとえば『マス・イメージ論』が出た同じ年に埴谷雄高との「コムデギャルソン」と『死霊』とは等価なんだ、いやとんでもないって論争が話題になりましたね。もちろん等価に決まってる。いや「コムデギャルソン」のほうが高価だ(笑)。この論争や『マス・イメージ論』をちょっとめくった程度で、資本主義におもねる主張だと批判する人もいたけれど、吉本さんはそんな批判など百も承知ですから。僕は吉本さんが取り残されたなんて思っていなくて、むしろ逆だと考えています。かれはもっと異次元から眺める眼差しをもっていた。きっかけは共同幻想のありようの変化です。吉本さんが一九六八年に『共同幻想論』を出した時から、共同幻想はたんなる国家や宗教に還元できるものではなくなってきて、いやそもそも国家や宗教というものがとてつもなく怪物化していき、その正体も見えなくなっていった。今日の世界を見わたしてもなおさら言えることです。とうぜんそれに対する個人や対幻想つまり性のありかたもこれまでにない大きな変容を被ってきているし、いまもそうです。『マス・イメージ論』があつかうのは成熟した消費社会の、『ハイ・イメージ論』はさらに高度情報化社会あるいはハイパー資本主義下での社会と個人の変容の正体をあぶり出そうとしたこころみですが、この変容はそれまでのヘーゲル由来の「世界認識の方法」では収まり切れないようなものだった。そのため吉本さんはこの二つの著作で思想的なコペルニクス的転回をこころみたんだと思っています。こちらからの、認識主体からの視線の延長のままでは変容する世界をとらえきれない。世界のきわまで包み込むように視線をもっと遠くへ跳ばさなくてはならない。跳躍してさらに世界の向こう側まで突き抜けてしまわなくちゃいけない。そして今度は逆向きに、いわば宇宙からの視線によってこちら側の世界を語らなくてはならない。『ハイ・イメージ論』冒頭で語られる臨死体験者と富士通館での3D体験の話はその転回の宣言です。臨死体験者が蘇生して死後の体験を語るような、つまり「往相」にたいする「還相」です。けれどそのように語るのは困難をきわめます。そのための具体的な分析と表現のツール、あるいは方法として提示したのが「 像 ( イメージ ) 」というコア概念です。僕はそれを「真言(マントラ)」と呼びたくなりますが。
鶴山 今じゃわかりにくいけど、当時は「大関朝潮が六本木のWAVEから「現代思想」を小脇に抱えて出てきたのを見た」といった冗談が通用した時代だからね(笑)。でも振り返ってみると一九八〇年代半ばから九〇年代前半が「わが国では、文化的な影響をうけるという意味は、取捨選択の問題ではなく、嵐に吹きまくられて正体を見失うということだった」最後の時代かもしれない。
現代のマス・イメージが無意識的に生み出した新たな 像 ( イメージ ) が言語と接触する際に、言葉は 像 ( イメージ ) から新たな暗喩や幻想表現を受け取る。もしくは 像 ( イメージ ) に言語的暗喩や幻想表現が附加される。そしてそれらの一部がさらに言語線を下降して表現の深みを増すだろうと示唆されています。
「語相論」はマンガ批評ですが、優れたマンガ最大の特徴は「画像にともない言語の〈意味〉の重さを分断して軽くし、またその言語的陰翳を微分化しようとするところにある」という分析は見事です。要するに作品解釈の幅が大きくなり多様化する。アニメやゲームにも同じことが言えます。 像 ( イメージ ) を中心とするサブカルが文学よりマスに支持される理由です。文字のみの表現よりも多面的で現代のマス・イメージを的確に表現できるからです。逆に言えば文字のみの文学は 像 ( イメージ ) に近づかなければ支持を得られない。
想像的な 像 ( イメージ ) の特徴はふたつかんがえられる。ひとつはその 像 ( イメージ ) が、はっきり輪郭をつくれない凝視覚像だということだ。もうひとつは、にもかかわらず全方位の 像 ( イメージ ) であるため、視覚ではまったく不可能な、対象物の裏側も側面も上下も、あたかも視えるかのようにあらわれることだ。このふたつの特徴はたがいに関連している。輪郭をつくれないぼんやりした 像 ( イメージ ) しかあらわされないことと、視えるはずのない裏側や側面は上下などが、全方位から 像 ( イメージ ) をつくっていることは、いわば代償関係として想像力により 像 ( イメージ ) にあずかっている。
想像力でうみだされた対象物の 像 ( イメージ ) を、いまここで分解してみる。これは理論的な仮定だけからすれば可能だ。すべて想像力でつくりだされた 像 ( イメージ ) は、対象物と想像している主体とを同時に視ているもうひとつの〈眼〉と、対象物のただの視覚とに分解される。もうすこし突っこんでいえば、対象物とそれを視覚像としてみている主体の視座の双方を、同時に包み込んでいるもうひとつの〈眼〉を内在化できれば、想像作用でつくられた 像 ( イメージ ) にたどりついたことになる。
萩野 今おっしゃった世界視線、垂直に上から見る眼差しは吉本さんの正しい時代認識にもとづく的を射た方法だと思います。臨死体験の話の後に3D体験を語られているわけですが、あれはとてもリアルな記述です。映像技術がリアルだという意味ではなく、吉本さんが語っているそのこと自体がとてもリアルに、しかも象徴的に現代の実相をあらわしている。〝世界視線〟で吉本さんが言いたかったのは新しい世界把握の方法です。『ハイ・イメージ論』の対象とする範囲は広くて、文学、ファッション、都市、舞踏、消費、自然学、古代、音楽、童話などと現代を特徴づける要素だけでなく、ほとんどルネサンス 人 ( びと ) のような射程の大きさで、それらの要素をある種の映像体験に還元していく。西洋中世から近世の人びとだったら還元するのは神ですけど、そこからあらたな「人間」概念が育っていったように、吉本さんが育てようとしていた独自の「人間」や「社会」概念があったのではないか。そのキーになる概念が 像 ( イメージ ) です。 像 ( イメージ ) といってもたんなる想像とか空想という意味でのイメージとはちがいます。鶴山さんがおっしゃったように言語としてのイメージ、それも言語そのものを包み込むようなこれまでにない視覚イメージに還元しようとしています。さっき「真言(マントラ)」って言ったのはそんなニュアンスを込めています。だからいきおい、言語的イメージからなる文学作品への参照がかなりのウエイトを占めています。これまでにないこころみですから上手くいっている章もあるしイマイチぴんとこない章もありますけど、吉本さんのこころみの大きさを感じずにはおれません。
鶴山 ポストモダン思想は神様がいるヨーロッパの思想で、日本は欧米と比較すれば基本的に最初から無神・無本質ですから、なぜあの思想に大騒ぎするのかよくわからない。
萩野 そうなんですよ。欧米の人たちが唱えていた「ポストモダン」って、一神教的な神のいない日本人にとってある意味ではあたりまえの日常のふるまいのひとコマですよね。「脱ロゴス中心主義」や「脱二元論」や「脱構築」などといった「脱ナンとか主義」もそうですし、ボードリヤールの「シミュラークル」だってラカンの「シニフィアンの戯れ」だってそうです。だから周回遅れのようにクール・ジャパンなどと世界的な日本ブームがあとになってやってきて、わかっていない当の日本人自身は相変わらずさすが欧米の人たちだな、ポストモダン思想ってすげえとかオレたちも逃走しようだとか、そんなことを言う人はもういないと思うけど、いやあボクたちそれほどでも、なんてこそばゆく感じてたりして。だとしたら悪い冗談というか戯画でしかない。
池上 お二人がおっしゃった「像」についてですけれど、『言語にとって美とはなにか』は最後「記号と像」という項目で終わっているんですよね。どうして吉本隆明が「像」を問題にするようになったかというと、元はと言えば、服部達が一九五五年に発表した「われらにとって美は存在するか」の中で大岡昇平の「俘虜記」などを論じて「想像力」の問題を取り上げていて、これが吉本隆明に影響を与えているんです。
萩野 正直言ってよくわかりません。ただ吉本さんが生涯でもっとも書きたかったことの一つがあそこに凝縮されているんだな、という印象があります。『ハイ・イメージ論』にも共通することですが、いきなり眼(視覚)の話が延々と続いて、そして〝世界視線〟の話に分け入っていきます。「了解」と「時間性」という、ハイデガーやビンスワンガー由来の問題が独自の視点で論じられていたりして、それはそれで面白いんですけど、そう思いながら本論を読み進んでもけっきょく吉本さん自身の視点はどこにあるのかよくわからない。どこでもない異世界から射し込まれるような視線と言うしかないものがある。吉本さんはこれを「向こうから来る視線」と言っている。そういうものが絶えず現在の中に入っていないとダメなんじゃないか、っていうんですね。それで思い起こしたことがある。ひとつは折口信夫の「まれびと」論です。「まれびと」は世界の果てというか海のかなたというか、われわれにとって世界外の存在で、いつも向こうから突然やってくる異者のことです。もうひとつが『言語にとって美とはなにか』の冒頭近くで、古代人が海を見て「う」と言葉を発しただろうという箇所です。論点も内容も異なりますが、あれは言語の発生論ですよね。吉本さんはものごとの関係性の分析を徹底しておこなう人ですけど、もうひとつ忘れてはならないのが〝発生〟の探求です。吉本さんの広大な関心領域の中心にずっと〝発生〟ということがあるんです。あの箇所には〝発生〟にまつわるとても重要な視点が提示されているんですけど、そのことに読者が気づかないうちにソシュールの言語学が流行って、「示差」の概念を抜きに言語の成立をうんぬんするなんて粗雑だと批判され、その重要性が見過ごされてしまった。識者たちはまったくわかってないと思います。
鶴山 うん、それは審級の混乱だね。ソシュール言語学は基本発生論とは無縁ですから。あれは 話言葉 ( パロール ) の分析中心でシニフィエとシニフィアンから成る言語(記号)体系は恣意的であるという関係性理論です。言語を静的(スタティック)な体系として捉えればその通り。でも言語起源論になるとなんらかの原型イメージを措定しないと、言語は体系化されなかっただろうと考えられます。
萩野 そう。表音文字が中心となるソシュールの視点からは言語の共時的構造や世界の文節構造、つまり文や語の生成とか、アナグラム研究のような興味深い成果は得られても、おっしゃるような言語のもつ「表意性」だとか、まして言語そのものの〝発生〟は出て来ようがない。吉本さんのような発生論を語っている人はほかに一人だけいますが、それがさっき言った折口信夫です。
鶴山 それに井筒俊彦。
萩野 ああそうですね。井筒さんは慶應で二人の師と認める人に出会っています。西脇順三郎と折口信夫です。井筒さんはそのころ折口さんの『国文学の発生』を読んで影響を受けています。言語の発生を人間の意識の深層構造のダイナミズムから解き明かそうとした井筒さんの思考の足跡をたどると折口さんと共通の原点、つまり大乗思想と啓示宗教に至ると思います。一方で吉本さんの『心的現象論序説』は三木成夫さんの影響を受けていますけど、原点は二人と同じじゃないかと思うんです。吉本さんは生命の〝発生〟、そこから人間存在の原初的本質を解き明かそうとして「原生的疎外」という概念を提示しました。キリスト教的に言えばこれが「原罪」です。そこから人間の心的領域の構造分析、これ構造主義の「構造」じゃありませんよ。吉本さん独自の概念分析へと発展していくわけですが、『心的現象論』まで一貫して根っこにあるのは生命の発生論です。「了解論」で時間性の中での了解とか言っているんですけど、ほんとうに吉本さんが言いたいのはハイデガー的な、時間内的存在としての「了解」ではなく、〝発生〟それ自体は時間の外にあるんだということです。人間の発生、生命の発生、言葉の発生、それらは時間性をはみ出している。さっき「まれびと」と言った視線はここにつながります。
鶴山 『心的現象論』は形式的に捉えると空間・時間軸を前提とした伝達論で、ニューロン理論に似ているのでこりゃ実験した方がいいんじゃないかと思ったりしますねぇ。
萩野 そこは理系なんですよ。記号や数式を使って一所懸命説明しているんですが、説明の補助として用いるというより、何よりご本人が好きでのめり込んでやっているから。吉本さんご自身には明解でも、こちらはますますわからなくなる(笑)。
鶴山 理系と言えばそうなんだけど、どっぷり理系かと言えばそうでもない。
池上 でも『言語にとって美とは何か』だって、数学の表現論をヒントにしたんだと自分で言ってますからね。まあ初期の「詩と科学との問題」を読むと、最初から詩と科学は吉本隆明にとって切り離せないものだったんでしょう。ランボーやマルクスも科学に関連付けて論じていますし(「ラムボオ若くはカール・マルクスの方法に就ての諸註」)。しかし、ランボーの「言葉の錬金術」について、「彼にとっては詩とは 言葉 ( ・・ ) といふ自然現象を組合はせて新たな現象を得る科学(彼は錬金術と呼んだ)であった」と書いているのには感心しちゃった。言われてみれば錬金術も科学というか化学だものね。やっぱり理系の発想が基本にはありますよ。
鶴山 マルクスには興味があったけど現実のコミュニズムには興味がなかった。でもパブリックイメージは左翼。不思議だよね(笑)。
池上 六〇年安保闘争でブントにコミットしたのが〝左翼〟というパブリックイメージに繋がったんでしょうね。スターリニズム批判とか「新日文」批判の文章もずいぶん書いていますし。
鶴山 今読むと時代状況がわからないので理解しにくい文章が多いんですが、人の批判をすると天才的だなと思う時があります。もう本当に身も蓋もない(笑)。
池上 六〇年安保闘争の敗北と、その後に商業メディアから干されたことで、「自立の思想」の拠点として『試行』という同人誌を一九六一年に村上一郎と谷川雁と三人で始めるわけですよね。一九六四年の十一号からは吉本隆明の単独編集になります。ぼくは実は吉本隆明を読み出したのは中学三年の時に『荒地詩集1951』に出会うより前で、『試行』も一九七六年頃から読んでいたんですよ。どんな中学生だったんだという感じですけれど……。田村隆一のファンになる前のアイドルが吉本隆明で、髪型を真似して「吉本カット」と自称していた(笑)。もちろん『試行』を読んだって、『心的現象論』なんてわかるわけがないんですけれど、巻頭に掲載されていた「情況への発言」がおもしろかったんです。自分を批判してきた人を返す刀で徹底的に批判しているのが痛快だった。大半の読者が「情況への発言」を楽しみにしていたんじゃないかな。ご本人はそんなに力を入れて書いているわけではないと言っていますが、必ず巻頭に「情況への発言」を載せていたのには意味があると思います。
鶴山 「現代詩手帖」誌に書くときは、編集部がどれほど「現代詩」を重視しているのか、忖度してしまう詩人がいるでしょうね。雑誌の看板だから詩は現代詩と呼ばなきゃダメなんじゃないかとか。もちろん編集部はそんなこと、気にもしてないでしょうけど。で、折口とニーチェが繋がるんですか。よくわからない。
萩野 それは微妙なところでして、吉本さんはニーチェをよく読み込んんでいます。ニーチェのたとえば初期のマトモな論文である『悲劇の誕生』はギリシャ悲劇の発生について論じていますが、ようするに文学の発生です。これも発生論なんです。吉本さんがニーチェのディオニュソス論を読んだ時の直観的印象と、折口の発生論、たとえば『国文学の発生』やその後の「 産土 ( うぶすな ) 神」にかんする論考を読んだときのそれに、互いにひびき合うものがあったのだろうと思います。すくなくとも僕自身はそう感じています。折口の発生論にはニーチェを思わせるような何かがあるんです。
折口全集をひっくり返してもニーチェに対する言及は見つからない。だから吉本さんがそのことに気づいた嗅覚は並外れたものです。すくなくとも発生論にかんして僕は折口とニーチェに同じ匂いを感じずにおれません。折口さんは敗戦後、敗れた神に代わって「産土神」を中心とした新しい神道教を打ち立てようとしました。「産土神」とはひとに魂を植えつけ育てる神のこと。つまり発生の神です。かれは『神道の新しい方向』というエッセイでこう言っています。「日本の神々を、宗教の上に復活させて、千年以来の神の 軛 ( クビキ ) から解放してさし上げなければならぬ」ってね。それまでの神道というのは宗教ではないと言ってるんですよ。すごいでしょ。それはけっきょくうまくいかなかったですけど、その背後には折口さんの西洋のキリスト教をはじめとする啓示宗教への深い造詣があり、その中にはニーチェのあの「神は死んだ」思想の影が射しているんです。折口さんって「啓示」の人なんです。神々が死んだ後の世界にどうやって新しい神を打ち立てるのか。それが折口神道のこころみです。
鶴山 難しいことを言うねぇ(笑)。でも折口さんの思想は正しいと思います。存在とも言えない日本の神の正体は空白なんだ。 御衾 ( おぶすま ) の中は空っぽ。神社の御神体も鏡で自分の姿が写るだけだったりする。神は死んでいるとも言えるしそこから不断に発生が生じているとも言える。周辺の発生・生成は見えるけど空白の正体は恐らく正確には掴めない。
また欧米文化と対比して言えば、日本文化に決定的に欠けているのは構造。空白の周辺に平面的に文化が生成される土壌だから当然ですね。日本文化を構造化できなければ真に欧米文化と肩を並べたとは言えない。僕は長篇詩へのオブセッションを抱えていますが、日本語で長篇詩を書くと間違いなく二千行程度で止まる。パウンドの『 詩篇 ( キャントーズ ) 』ほどの長篇詩でなくてもそれ以上書くには構造が必要です。日本の小説を代表するのは地を這うような構造のない私小説でこれはこれで世界に誇れる日本独自の形態ですが、自由詩はいつの時代でも前衛文学です。詩で日本文化を構造化することは文学全体に寄与すると思う。
(金魚屋スタジオにて収録 「吉本隆明篇」第03回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■萩野篤人さんのコンテンツ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
No.010【対話 日本の詩の原理】『戦後思想からポストモダニズム思想へ―吉本隆明篇』(三 全四回)池上晴之×鶴山裕司×萩野篤人【H】 was last modified: 9月 30th, 2025 by gold-fish-press
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