. 6選【伝記から解説書、小説や漫画まで】 - レキシル[Rekisiru]
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北条早雲をよく知れるおすすめ本6選【伝記から解説書、小説や漫画まで】

最近、聖壽の生誕が1468年2月であり、没年が1545年で年が77歳との記事を見ました。ただし、文献は表示されていなく不明です。私はこれに対し、彼女は義視公が伊勢の愛妾に孕ませた子供ではないかと述べました。その理由を述べてみます。 1,伊勢に現地妻がいたこと、 2,彼が京都を離れるとき、妻の良子が妊娠4か月とされるが、気を遣う気配もなく、大津に て逢う約束をした愛妾に未練の手記を残していること。 3,彼が美濃に落ちた時、手元に居たと思われる聖壽を、富子のもとに人質として送り届けている。彼女が良子の娘であれば京都にいるはずであり、人質の意味をなさない。 4,妹の娘であれば、尼に落とさずそれなりの武士に嫁がせると思われる。 5,伊勢を去るとき、国司が贈った歌が「刈茅童子」からで、意味深い謎を含んでいること。 6,聖壽の名が、義視公が12日間滞在した「聖壽寺」と同じであること、などである。

2022年10月20日 2022年11月4日

北条早雲について、誤解をまねく記述が「三重県安濃郡誌」(大正13年9月発行、昭和48年4月再版)で見つかりましたので、ここに報告させていただきます。郡誌の171ページ、其11 北条早雲の項に、(伊勢志略の如きは早雲河内村の産と書すると共に射和多気屋と申者六代祖なり玉川と云本名なりと二説を併記せり)と、あるが、私が2022,9、10日に行った調査によると、「伊勢志略」(津市・稲垣定穀・著)にこの記述は無く、実は「多紀具教行状記」(沙門宗阿・作)の誤りでした。宗阿は射和「延命寺」の第21世随意演智上人(「曼荼羅捫象」作者)に従い、貞享4(1684)年ころ、射和片山(延命寺の隠居寺)と射水(櫛田川)のほとりで中万(松阪市中万町)の豪商、「近田與四郎に請われ国司家の秘書を尋ね求めて記したものである」とする。この郡誌の誤植によって多くの早雲研究者に不信感をまねいたことは否めない。この誤った公記録により、其の後、北条早雲研究者の目をあらぬ方向(備中説)に向けさせたとすれば、「早雲公射和出身」説を唱える地元の我々としては誠に悔やまれる次第である。 近年、早雲公没、64歳説がようやく世に認められ、資料の全面的な見直しが行われつつある。射和に来住した年が、35歳から一気に11歳まで若返ったのである。そのため、彼の幼名が「宮千代丸」であったと判明するに至ったことは、研究者としてこの上なく喜ばしいことと感じている。一風。

訂正文。前記、一風手記について、一部誤りがありここに訂正させていただきます。 ①「誤植」は誤記の間違い。 ②「多紀具教行状記」は「多氣具教行状記」の間違い。 ③「随意演智上人」は「隋譽演智上人」。以上の三点が間違っており、大変失礼いたしました。 この「多氣具教行状記」について、補足しますと、「射和文化史」には一切記載されておりません。この原本は近田與四郎から幾人かの手を経て、最後に旧「三井文庫」に渡り、戦後米国のカリフォルニア大学・バークレー校に接収されたといわれる。あとは「国会国立図書館」収蔵本のみとなった。しかし、我々にとって幸運だったのは、御巫清白氏がご尊父の書き写されたものを、昭和24年に「神宮文庫」に寄贈されていたのです。多分、「三重県安濃郡誌」編集者は当時、三井文庫の管理者(岡 百世氏)に電話で問い合わせを行い、内容は正しく把握したが、書籍を間違ったのではないかと思われる。因みに、郡誌の参考文献に「伊勢兵乱記」はあるが、「多氣具教行状記」は見当たらない。一風。

今回は伊勢宗瑞の先祖について調査を行った。結論を先に述べると、備中伊勢氏の経久は京都伊勢氏(尾州の横井北条家出身)の①、左衛門尉盛経を猶子にして領地を与え分家させた。盛経はこの義父の恩に報い、伊勢家の菩提寺である「祥雲寺」とは別に、西荏原に「法泉寺」を建てて菩提を篤く弔った。彼には当初男子がなく、弟の新左衛門盛継を猶子として法泉寺の建立を引き継がせた。しかし、盛経42歳のころ、②、盛時(後の盛定、早雲の実父)が生まれたので、我が子を盛継(備中守)の猶子としたのである。これが「平姓北條系図」で云う「伊勢盛時(1432~没年不詳)猶子実備中守男」である。そして、この盛時が24歳の時(1456年)に生まれたのが、系図に言う次の「③、長氏(生年不詳~1519)後の早雲」である。つまり、早雲は後に親の盛時を襲名したため、この系図の盛時を早雲と後世に誤解したのである。(当時の襲名はあり得る)この親の盛時の生年と早雲の没年を合わせると88となり、「八十八歳の長命であった」と勘違いをしてしまった。もし、この盛時が早雲であれば、人口に膾炙した著名な人物の没年が「不詳」はあり得ない。従って私はこの盛時は盛定の前名と解釈したのである。(当時の小田原北条家では、なぜか備中で亡くなった正鎮<盛定>の没年と、早雲の生年は知りえなかった。)なお、(新)左衛門行長を襲名した人物が、初代盛経(経久の養子)をはじめ、盛継(盛経の猶子)・盛定(盛継の猶子)・貞道(宮千代の養父)・隆資(高越山城主)と、真否はともかく多かったこともあり、後にすべての 混乱の根源となったと思われるのである。(数字は血統系図を表す。これはあくまで私評であり、真偽は不明です。) 2022,07,03,記す。一風。

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